美しいものだけ受け取ってほしい
藍が掴みかけている靄は温かくて優しいようで、裏を返すと貴方を貪る毒なのだと諭す瞳はきっとわたしに負けないくらい鏡移しを愛しているのだろう。
あれからわたしは毎日朝の8時から夜の8時まで、藍ちゃんのお家へ愛音さんの世話、家事全般をしに通った。手持ち無沙汰な時間は愛音さんと他愛ない話をしたり藍ちゃんの番組を見て過ごしたりもした。勿論デスクワークレベルの研究を進める時もある。
あれから愛音さんは喫煙する事が日に日に減り、そのかわり…多分わたしとお話する時間が増えた。とても嬉しかった。
一月ほど過ぎたある日、藍ちゃんが久しぶりに一日オフで朝ごはんの時間に三人が揃っていた。わたしは久しぶりに藍ちゃんをゆっくりと観察できると、何日も前から今日の事を楽しみにしていた。朝の香りのするリビングでわたしは零れる笑みのままスクランブルエッグを口に運ぶ。目の前の愛音さんはまだ眠そうで、髪も結んでいない。ゆっくりとフレンチトーストを齧っていた。
「…忙しいみたいだけど僕が読み合わせたりする演技のお仕事は入ってないの?」
「今のところ。でもドラマの話が来てるから近々世話になるかもね」
「わかった…藍、どう?感情の方は、あれから何か新しい感情見つけた?」
「…うん」
「どんなの?」
「なんて、言うんだろう…ナマエがここに居てくれると前より作業効率が上がるんだけどこれって…なに?」
「え?わたし?」
「へえ」
愛音さんは今の藍ちゃんの言葉で完全に覚醒したようだった。すっと目を細めて微笑んでいる。わたしは固まっている。だってそれは深読みすると、安心…に繋がる事だと思うから。わたしが居ると、安心?
「…あの時のこと、ちょっとは考えた?」
「…今ここで言うこと?」
藍ちゃんは固まったままのわたしを一瞥して、怪訝そうに眉をひそめた。
あの時ってどの時だろう?わたしは二人の会話に全然ついていけてなかった。
「その方が面白いじゃない」
「アイネってほんと…」
「藍…藍は感情が欲しい?本当に?」
「……」
「僕は感情なんて要らないと思うんだ。藍、藍はそのままの方が幸せだ。ラブソングを幾つか調べてみたらいい、人は心が鉄でできてたら…と願わずにはいられない。藍が思ってる程感情は良いものじゃない」
「……」
「僕との接続を切った以上、もう藍が感情を学ぶ必要は無い。これからは自分の意思で決められる」
「…博士は研究したがってる」
「そんなの関係ない」
「……」
「藍は藍のしたいように生きるべきなんだ、だから…」
「…………え?」
会話の雲行きがどんよりして、わたしは余計口を挟めない状況だった。愛音さんの言う言葉は全て込められた想いが重りとなって心に落とされていく。愛音さんが藍ちゃんを想う気持ちもわたしにはわかった。
突然愛音さんは自室に戻り、直ぐに出てきた。外行きの格好、帽子とサングラスまできちんと装備されている。愛音さんはすたすたと迷いなく近付いてきて、わたしの腕を掴んだ。わたしは食べかけのフレンチトーストもそのままに玄関まで連行されそうになる。
「名前、出かけよう。何処でも名前の行きたいところに」
「へ?愛音さん?え?」
「藍、藍が抱きそうな負の感情を僕が教えてあげるよ」
「……」
愛音さんは一体何を考えているのだろうか。いまいち状況も読めないまま腕を引かれている。扉が閉まる寸前に垣間見得た藍ちゃんの表情は俯いて居て見えなかった。