意地悪な煙越しに



博士の、倫理も常識も捨てた文字通り裸の愛を一心に受ける彼にどうしても少しの情は移っていた。そして、究極の人間臭い想いから作り出された、人間とは程遠い存在をわたしはどうしたら愛さずにいられたのだろう。



「これ…」

「復帰祝いですよ、愛音さんの」



わたしは有り合わせの料理が所狭しと並んだテーブルの不自然と空いた空間に、これ見よがしとまん丸いホールのショートケーキを置いた。これには藍ちゃんもPCから目を離して興味を示している…と思ったら一瞬で苦い顔になった。



「…こんな大きなホールケーキ二人じゃ食べきれないでしょ。それに何、この大量のおかず達」

「何言ってるの藍ちゃん!味覚も消化器もわたしが血の滲むような思いで研究した賜物なんだから!!何の為ってこういう時に藍ちゃんが一緒に人間と楽しい思いを」

「わかった、わかったから、…一切れだけだからね」

「うんうん、おかずは愛音さんの好みがわからなかったから色々作りました」

「え…」

「どうしました?」

「いや、そこまでしてくれるなんて、思ってなくて」

「お口に合うといいんですが」

「…ありがとう」



愛音さんが嬉しそうに微笑むから、わたしはとてつもない達成感と幸福感を感じた。良かった。同時に藍ちゃんにもいつかきっとこんな風に穏やかな潮騒のような感情を抱いてほしいと思った。藍ちゃんはショートケーキを見つめている。



「ほら、藍ちゃんもこっちきて!」

「……」

「ふふ、それじゃあコップを持つ」

「…乾杯ってやつだね」

「そうだよ!凄いね藍ちゃん流石だね!」

「当たり前でしょ」

「じゃあ、愛音さんの復帰を祝して!かんぱーい!」

「乾杯」

「ありがとう、乾杯」



喉を通るオレンジジュースが、いつもより甘い気がした。
それから愛音さんの食べ物の好みをメモしたり、藍ちゃんに今度はシュークリームがイイと言われたり…とてもとても楽しい会だった。でも吃驚したのは、愛音さんがホールケーキをわたしと藍ちゃん一切れずつ以外ぺろりと食べてしまった事だ。甘党なんですかと聞いたら、君の気持ちも全部食べてしまいたかっただけだよと返ってきた。なんて歯の浮く台詞をサラッという人なんだろう、流石元アイドルだと痛感した。

お皿洗いに専念して、やっと片付いた頃。わたしはリビングへと戻ったが、藍ちゃんがPCに向かうだけで愛音さんの姿が見当たらなかった。



「あれ?愛音さんは?」

「…アイネならベランダ」

「ベランダ…?え…」


カーテンの隙間から白い煙を吐き出す愛音さんが見えた。こちらに背を向けているけれど、足元には煙草の箱が幾つか転がっていて灰皿には吸殻が何本も無造作に転がっていた。


「…ボクや博士がいくら言っても辞めないんだ。煙は微粒子だからボクにとっても…アイネにとっても毒なのに」

「……」

「窓は閉めてよね」

「わかってる」



わたしは科学者の端くれだから、藍ちゃんにも愛音さんにも良くない事だってわかっている。でも喫煙することを、悪だとは思えなかった。依存性も勿論理解しているし、なにより自分を穢してしまいたくなる気持ちっていうのを抱くことだって、あると思うのだ。



「愛音さんって、愛煙家なんですね」

「そうみたい。僕が閉じてる間に成人迎えたから、愛煙歴数週間だけど」

「そうなんですか」

「名前は…吸わないだろうね。そんな顔してる」

「……一本いただけますか」



わたしが控えめに手を差し出したのに、愛音さんは薄く笑みを浮かべたままそれを無視して自分の咥えていたものをわたしに向けてきた。つんと意地悪な香りが立つ煙越しに彼を軽く睨んで、躊躇しながら咥えて…吸った。…はいた



「あれ、意外。むせると思ってた」

「わたしも思ってました」



愛音さんは何も無かったように、さっきまでわたしの唇に挟まれていた所を咥えた。全てがナチュラルすぎて、動揺してる方が可笑しいように思えてくる。

愛音さんが今纏うものと、同じ味を肺に感じながら空を見上げた。殆ど夜で、でも遠くは薄明るい。美しい空だ。
喫煙者は大抵、煙を吸いながら愛おしそうに空を見上げるものだと思っていたから、死の確率を招き入れながら見上げる空はどんなに綺麗なものだろうと思っていたけれど、いつもと対して変わらなかった。



「…僕が閉じる前、これを知っていたら…閉じずに済んだかもなって、思うんだ」

「…大人の逃げ場ですからね」

「僕は子供で、真っ直ぐにしか生きれなかったんだね…」

「それにしては、きっとたくさんのものに追われてた…」

「そうだね…」



吸い込まれる煙は、心の中の何かを攫って、きっと外に出してくれるのだろう。その引き換えに小さな粒を身体に置いて行くのだ。



「僕は真っ直ぐに生きていた。全てに応えなければいけなくて、更に皮肉なことに誰がどんな期待や思惑を僕に振りかざしているのか手に取るようにわかる人間だった」

「……」

「だから、きっとキャパシティが足りなかったんだ。真黒い思惑だらけの世界に心が保たなかった」



夕闇は空を覆い、太陽は完全に眠りについてしまった。カーテンの閉められた窓を背にしているため、淡い光が後ろから溢れベランダの壁に二人の影を写している。
ゆらゆらと生まれる煙以外は時を止められているように静かだった。



「でも、今僕は誰の期待にも応えなくていい。だからもう、僕は誰かの為じゃなくて、自分の為に生きる事にしたんだ」

「…それでいいと思います。人生は一度きりですからもっと我儘言うべきです」

「…にんじんは嫌だとか?」

「そのいきです!!!もう一声!」

「…あはははっなにそれっ…じゃあセロリとアスパラガスも追加で」

「王道きたー!!!」

「ぶはははっ!」



愛音さんは元アイドルだなんて到底見えないような声で思いっきり笑っていた。腹を抱えて、もう捩るくらいに。ひとしきり笑い尽くして、涙を拭いながらだいぶ落ち着いてきた愛音さんはもう煙草を吸ってはいなかった。



「はーーー笑った…」

「良い事です」

「はあ…僕はなんで、嶺二にも圭にも響にも言えなかった事…君には言えたんだろう」

「うーん、以前の愛音さんを知らない部外者だからじゃないですかね?」

「うーん…まあそれもあるけど、恐らく君が、」

「ちょっと、君達さっきから煩いんだけど。近所迷惑。アイネもそろそろ切り上げて、ナマエは帰る時間でしょ」



背中の窓が突然勢い良く開いて、藍ちゃんがまるで保護者のようにわたしたちを叱った。わたしと愛音さんは顔を見合わせて笑い合った後、それぞれ部屋に引き上げて各々の準備をした。



「それじゃあ、今日はこれで」

「うん、ボクは朝から仕事だからナマエはアイネの朝食を考えて8時に来ればいいから。アイネは100%寝てるから合鍵持って行きなよ」

「了解です!藍ちゃん、明日のお仕事も頑張ってね!」

「うん、」

「それじゃあまた明日、愛音さん」

「またね」



わたしは星と星の間に愛音さんとの会話を思いながら帰路についた。







________



「アイネ、さっきなんて言おうとしたの」

「え、なんの話?」

「ボクが途中で切った、君が、の後だよ」

「…さあ?なんでしょう」

「君が好きだからかな、そう言うつもりだった、違う?」

「はずれー。スーパーコンピューター様も間違える事なんてあるんだ」

「…仮定が違う結果になる事は何か可笑しい?」

「いや、全く」

「じゃあなんて言おうとしたのさ」

「君が、藍の好きな人だからかな」

「…っは?なにそれ、勝手に何言って」

「じゃあ藍、藍は僕が名前に好きだと言うと思ってたんだよね?なんで邪魔するような行動したのかな?」

「そ…れは」

「それじゃあ僕はお風呂入って寝るから、オーバーヒートしないように気を付けなよ」

「……」








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