アルドロバンダの形骸





群生するパイプの間を縫って、廃材の山を抜け、冥がりに沈む階段を避けながら、少女は進む。その足取りは軽く、弾むようだ。

道行く道は闇。あちらこちらに染みや滴りが散在し、物陰からは油と何かが混ざりあった異様な臭いが立ち込めている。

この廃墟は息をしている。

それは呻き声をあげて、通るものの背後についてくるのだ。
少女はまるでその声と戯れるように、絡み合うパイプの上を飛び越えていく。


とある広間の前で、少女は不意に足を止めた。

視界に飛び込んできたのは、老いた巨大な機械の群だ。

そのずんぐりとした体を、幾本ものパイプや管が這いまわっている。ぼろぼろになった機械は、所々その中身を剥き出しにしていて、飛び出した歯車がオブジェのようだ。

高い天井にも届きそうなその巨体は、正面から見れば、押し寄せるような存在感があった。荒々しく錆立ち、そこに意思さえ感じさせる。

そんな巨体がいくつも並んで、まだ余裕があると言わんばかりに、この部屋は広々としていた。ドーム型の天井は、巨大な土塗りの温室を思わせる。朽ちるもの特有の土臭さはあるものの、空気は不思議なほどに澄んでいる。

所々剥がれ落ちた天井から細く射し込む陽光が、眠る巨体をやさしく包む。
役目を終えた蒸気機関車のように、静まりかえる機械たち。どこか、鎖に繋がれた怪物が、そのままの形で錆び付いたようにも見える。


少女の瞳はしかし、いつのまにかそれらの巨体をそれて別のものを映していた。
大きな機械の脇に伸びる、僅かな隙間。
他の機械が、お互いの体に入り乱れる管に進退極まる中、その隙間だけは変に小ざっぱりとして、細い通路を作っている。

その通路の先に、扉のない部屋があった。

壁を真四角にくりぬいたような、がらんとした入口。ほの暗い室内に透明なひかりが射して、空気の緩やかな流れに当たり白いもやを作っている。そのもやが、入口の向こうとこちらの世界を隔てているように見えた。

少女はその部屋に向かって狭い通路に入っていった。小さな体を捩り、細い隙間に身を乗り出すようにして進んでいく。
入口からそっと部屋の中を覗きこむ。

そこには、黒いかたまりがあった。

白いもやに霞んで、影のようになっている。よく見るとそれは人のようだった。部屋の真ん中で、踞っている。

ああ、彼だ。

少女は安堵した。黒ずくめの彼はこちらに背中を向けて、薄汚れた木の椅子で項垂れている。


少女の駆けるこの場所は、彼の記憶のすべてだった。
廃材の山。錆びついた機械。玩具箱の教室。薬品の染み溜まり。人の支配が色濃く残る中、この部屋だけは、それを感じさせなかった。

ガラス張りの出窓は緩やかな曲線を描き、木漏れ日は部屋の隅を曖昧に照している。
窓の外には、鬱蒼としてどこか虚し気な森が広がっていた。長い歳月の中、湖の底で少しずつ朽ちる埋没林のように、 静かにそこに横たわっている。乳白色の太い幹は滑らかな空気に撫でられ、溶けて深く泥に沈み込んでいる。


森の穏やかな時間にさえ取り残されてしまいそうな黒を、少女はじっと見ていた。薄い背中は、腰掛ける椅子と今にも同化してしまいそうだ。

少女が椅子の下から顔を出すと、彼は重い瞼を上げて虚ろな眼を覗かせた。
焦点の合わない瞳は、水溜まりに浮かべた油のように暗くまどろんでいる。


彼の座る木の椅子は、捨てられたままの形で年を取っていた。その足元では、固いコンクリートを持ち上げて草木が芽吹き、透き通った糸のような葉を這わせている。それは互いに絡み合い、椅子の脚の付け根まで透明な腕を伸ばしていた。その腕を、赤い滴が伝って落ちる。滴は、投げ出された彼の足先にも、同じシミを作っていた。

外ではもう日が沈みはじめていた。

少女は彼の前に膝をついて、小さな掌で赤く染まったその手を隠す。
彼の緋色の目が、長い睫毛の下で微かに震えた。


「歌って」


少女は囁いた。

くずれた標本。黒ずんだ手術台。子供の落書き。血塗れの独房。
うっすらと、首もとに浮かぶしろい痕。

彼は、声を出すことができない。彼の得物と同じかたちの、折り重なったしろい痕が、そう訴えている。

だが、彼は歌うことができた。
もっとも、それを「歌」と呼ぶことができるかは定かではないが、少女はここに来る度、いつもそれをねだるのであった。

彼は、少女の願いに応えるように、一度だけゆっくりとまばたきをすると、頭を持ち上げ、天井を仰ぎ見る。瞼を閉じ、静かに歌いだした。


それは、沸き上がる気泡のようだった。


歌声は彼の口から生まれては、あぶくのように、揺らめきながら浮かんでいく。
気泡は止めどなく溢れ出す。そのひとつひとつが緩く繋がって、宇宙雲のように立ち上ぼる。
内側で、渦を巻いている。慟哭と後悔の黒。

気泡は天井にたどり着く前に、煙となって青い背景に滲んだ。

ごぽ、ごぽ、ごぽぽ…

少女は目を閉じた。

遠くで、誰かがピアノを弾くのが聞こえる。雨音のような、なつかしい音。
静かな雨が、森を染めていく。

ごぽ、ごぽ、ごぽぽ…

暗い水槽の底で、彼らは息をする。

ぼう、とひかりをはなつ森に、降り立つピアノの音。
彼は歌い続けた。

その歌声に身を委ね、少女の意識は、少しずつ遠くなる。




‐‐‐




静寂が、歌声を断った。


いつの間にか日は沈んで、あたりは深い闇に包まれている。

気泡も、雨も止んでいる。全ての音が、冷たい地面に吸い込まれて消えた。

それはまるで、少女が眠ると同時に、時もまた、刻みを止めたかのようだった。


夜が、目を覚ます。
その冥がりの中で、真っ白な月が笑った。










2013/05/07 18:33


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -