いつからだっただろうか。
あの人が見せる不器用な優しさ、笑顔に惹かれていた。いつも気がつけばあの人の姿を目で追う自分。話し掛けられるだけで喜ぶ自分。
どんな理由であれ、あの人の隣にいる時間が私の幸せ。そして、それと同時に苦しい時間でもあった。だってどれだけ想っていても、その想いをあの人に告げることは許されないから。
「雪村」
「何でしょうか、土方先生?」
「これを準備室に運んで、いつものようにやっておいてくれねぇか?」
「わかりました」
「いつもすまねぇな。頼む」
去り際にポンと私の頭の上に置かれた大きな手。こうやって土方先生に撫でられるのが、古典係をしている私の特権の一つだ。
この古典係をしてもう三年目となる。仕事も三年していれば慣れたもの。国語準備室にプリントを運び、頼まれた仕事をしていく。
誰もいない部屋にはパチン、パチンと私がホッチキスでプリントを止める音だけ。
あと少しで終わろうかという時。ガラッと音を立てて準備室へ入って来た土方先生。
「あっ、もうすぐ終わるので」
「別に急がねぇでも大丈夫だ」
そう言って私の正面に足を組んで座る。いつもピシッと着ているスーツも今は上から二つ目までボタンを外し、ネクタイも緩めている。こんな土方先生を見れるのも古典係の特権である。
前に座る土方先生は小テストの丸つけをしていく。どちらも口を開くことなく作業をする。土方先生のペンの音と私のホッチキスの音が響く部屋に、ザーッという音がした。
「…雨が降って来たな。おまえ、傘は持って来たか?」
「あっ……」
土方先生に聞かれて、自分が傘を持って来ていないことを思い出す。家を出て来る前に見た天気予報では雨が降るなんて言っていなかったから持って来なかったのだ。
「だと思ったよ。送ってやるから、準備しろ」
「えっ、」
「おまえを濡れて帰らすわけにはいかねぇだろ」
早くしろ、と言ってテーブルの上に広げていたプリントを仕舞い出す土方先生。私も慌てて最後に残っていたプリントをホッチキスで止め、帰る準備をする。
私は昔からこの分厚い雲に覆われて暗くなる空が嫌だった。洗濯物も干せなくなるし、雷も鳴ったりするから雨の日は嫌い。
暗くて重い雲が立ち込める空からは、絶え間無く雨が降る。いつもならこんな日は気分が暗くなっていたが、今は隣で運転している土方先生がいるから不思議と気分が暗くならなかった。
「そういや、雪村もあと数日で卒業か」
「そうですね。あっという間の三年間でした」
あと数日で卒業と言うことは、この古典係もあと数日で終わりと言うこと。この幸せな時間も終わりなのだ。
「この古典係も卒業なんですね…。そう思うと、やっぱり寂しいです…」
「じゃあ、新しい係でもするか?」
「新しい係…?何の係ですか?」
「俺の世話係だ」
「えっ…、」
何かの聞き間違いだろうか。隣の土方先生の方を振り向くと、今まで見たこともない優しい顔をして私を見ていた。
「やっと言える。卒業したら、…俺の彼女にならねぇか?」
こんな夢みたいなことがあってもいいのだろうか。
「土方先生の隣に立ってもいいのですか?」
「俺の隣はおまえしか勤まらねぇんだよ。…って、何泣いてんだ」
「……私もやっと言えます。土方先生が大好きです」
雲から覗かせた幸せの光
◎前サイトから。