マリンスノーに祝福を | ナノ


▼ No title.

 ドアを開けるとチリンと軽い音が鳴った。客の来店を知らせるそれはとても素朴な優しい音で、何度聞いても心地いい。
 店内にはピアノ曲が流れ、ゆったりしたバラードが店の空気を満たしている。

「いらっしゃいませ。千星さん」

 入り口の右手側にはバーのようなカウンターがあり、そこから茶髪の少女が声をかけてきた。シンプルな紺色のワンピースの上に白のエプロンをつけている彼女は、喫茶店『午後二時四十三分の憂鬱』のウェイトレス兼居候の十四歳の少女。

「久しぶりだね紗彩。剣は?」
「奥にいますよ。呼びますか?」
「うん。それが終わったらいつものやつね」
「分かりました」

 彼女の後ろ姿を見送り、カウンター席に腰を下ろす。
 常連客から『憂鬱』と略されるこの店は、木材の持ち味を生かした、どこか懐かしさの漂う不思議な場所だ。あまり広くない店内にはテーブル席が五つとカウンター席がある。
 店の隅にある大きな観葉植物に目を向けた。

「ここには長くいたっけな……」

 独り言を呟いてみる。初めて来たのは何年前だったろうか。師匠の後をついてビクビクと店に入ったことは鮮明に覚えているけど、生憎と月日の経過までは忘れてしまった。あの時はまだ『わたし』で、髪も目も黒かった。

「待たせたな」
「いや、全然早いよ。久しぶり」
「おう」
「今日来たのはさ、二人に話があるからなんだ」

 そう告げると剣はおれの隣の席に座り、紗彩は注文を受けたメニューを作りながら耳を傾ける。

「師匠から逃げなきゃいけないんだ。近いうちに」
「逃げる?」
「おれが『おれ』の理由は知ってるよね?」
「ああ」
「目的も」
「……聞いた」

 剣の黒い瞳がおれを射抜く。

「でもどうしてあいつから逃げんだよ」
「師匠に言われたから」
「何を?」
「おれの目的を力ずくで阻止するって」

 剣の表情が強張り、紗彩は動作の手を止めた。予想通りの反応に、うっかり笑ってしまう。

「ちょ、笑い事じゃねーだろ!」
「いや、なんていうか予想通りだったからつい」
「はぁ……。理由は?」
「さあ? 本当にどうしてだろ。おれにはわからない」

 宣言された時は随分混乱したものだ。少し経った今では落ち着きを取り戻したけれど。
 おれは人差し指を立て、それを剣の顔の前に持っていった。

「ハンデは一年間。来年の今頃には追いかけるって言ってた」
「猶予が長いな……」
「……まるでその間に目的を達成しなさいと言っているようなものですね」
「うん。本当に意味がわからない」

 紗彩の言葉に表情が歪む。師匠はおれを突き放したいのか、救いたいのか、さっぱりわからなかった。

「今わかってるのは逃げなきゃいけない事だけ。ここには一生、戻ってこない」
「一年も猶予があるのにか?」
「やっぱり目的が一番大事だから。剣と紗彩に会うのも今日で最後だよ」
「……そうか」
「うん。でもさ、」
「なんだよ」
「たまには電話してもいい?」

 剣はおれを無言で見つめ、突然なにかの糸が切れたように笑い声を上げた。大声を上げて笑っている。こっちは真剣だったのに。

「うわあ、なにそれものすごく失礼」
「だってよ、大層な事言っといてオチがそれかよ……。お前はガキか!」
「ひどい! 紗彩この人ひどいよー」

 おれ達がぎゃーぎゃー騒いでいるのを見て紗彩が苦笑を漏らす。まるで兄弟喧嘩を見守る母親だ。いやしかし、確かこの中で一番年齢低いの紗彩だ。

「千星さんお待たせしました」
「うん? ああ、ありがと」

 目の前には注文をしたココアと特性たまごサンド。いつものメニュー。
 顔を上げると紗彩の笑顔。隣には剣のにやにや顔。いつもの『午後二時四十三分の憂鬱』。
 おれはカップを持ってココアを一口飲んでみた。いつもの味。

 これは一ヶ月前の、おれの日常だったもの。そして新しい『日常』が、今から始まる。




20081227

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