▼ 月光マーメイド3
ふらりと屋敷を抜け出したリズは、以前スパーダを助けた砂浜に来ていました。
合わせた両膝に額を軽く乗せ、一定の波の音に耳をすまし。一人静かに思考の海にのめり込んでいきます。
「……」
今も屋敷中がスパーダの話で持ちきりとなっていることでしょう。あのご令嬢といつ婚約をするのか。半ば賭けのような予測が使用人の間に広がっているのです。
「……」
それを思い出すだけでリズの心には雨雲がかかり、暗い気持ちになります。
スパーダの傍で役に立てるだけで良い。屋敷に来た当初に抱いた想いは、揺らいでいました。
「リズ!」
そのとき、リズの耳に懐かしい声が耳に飛び込みます。驚いて顔を上げれば、なんとイリアの姿があるではありませんか。
「あんたねぇ! 急にいなくなって……こっちがどんだけ探したと思ってんの!?」
「うー……イリア姉ちゃん声デカすぎや」
「エルの言う通りよ。誰かに見つかったらどうするの?」
イリアに続き、海面からもう一人の妹のエルマーナと姉のアンジュが姿を現します。思わぬ再開にリズは目を見開きました。
そもそも妹二人は外の世界に来れないはず。疑問は浮かびますが、声が出ないので尋ねる手段がありません。
「状況は一刻を争うわ、リズ。あなたを探している時、わたし達は魔女に会ったの。そこであなたのことを聞いたわ。魔女と交わした契約も」
アンジュが告げるのは、声を対価に足を得た時に交わした契約でした。
『奴の心に映らなかったとき、貴様は泡となって消えるだろう』
魔女が最後に言い放った言葉。心にしまい込んでいたそれがリズの脳裏によみがえります。
スパーダの心は既に魅力的なあの女性を向いている。だからこのままでは泡となり、消えてしまうだろう。
リズは襲い来る不安と共に、諦めの気持ちを持っていました。
「わたし達魔女を倒したんだけど、一度かけた契約を解くには強行突破しかないみたい」
そうなのか。リズは冷静に想いましたが、しばらくして言葉に違和感を覚えます。
──魔女、倒しちゃったんだ。
姉妹の行動力にリズなんとも形容し難い気持ちになりました。
エルマーナの話しによると、熱帯魚のルカとロブスターのリカルドという仲間を集めて魔女退治に行ったそうです。
「まぁそれは置いといて……。ここからが大事よ」
「……」
「魔女との契約を解くには強行突破。つまり、リズが人間になった原因のヤツを消すの」
リズの体が一瞬で強張ります。背筋には冷たいものが流れました。
彼女の変化を真剣な眼差しで見つめるアンジュは、手に持つ短剣をリズの足元に投げます。
「魔女から奪った剣よ。これで心臓を狙いなさい」
姉の短い言葉は、選択の余地さえ与えないものでした。
シンと静まり返る屋敷内。スパーダの寝室前に、一人の新米メイドが立っていました。
執務室から拝借した鍵を鍵穴に刺し、なるべく音を立てないように回してゆっくりとドアを開きます。
リズは闇に紛れて進みます。足音を立てないように、胸の前でしっかりと握る短剣を落とさないように。
そしてとうとう目的のもの……ベッドの中で寝息を立てるスパーダの元へとたどり着きました。
「……」
リズは表情を殺し、与えられたナイフの切っ先を彼の心臓の上に定めます。
姉妹の言葉が脳をぐるぐると巡っていました。
やらなければ自分は泡となって消える。選択肢を与えられたリズは、生きたいという欲求が芽生えはじめています。
「……」
額には嫌な汗が浮かびます。
ナイフを突き立てれば、自分は生き残り彼が死ぬ。
ナイフを突き立てなければ、自分が死んで彼は生き残る。
沈黙の中、リズは生き物全てに宿る欲求と、主人を想う心との間で葛藤しました。
「……──っ」
結果、頭に浮かぶのはスパーダの笑顔で。
ナイフを握る手から力を抜きます。スパーダは殺せない。それが彼女の出した答えだったのです。
リズはゆっくりと後退り、部屋を出ようと踵を返しました。
「……リズ?」
しかしそのとき、彼女の背後から声が聞こえたのです。
心臓が大きく跳ねます。驚いて振り返れば、閉じられていたはずの灰色の瞳がリズを映し出していました。
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