▼ 月光マーメイド2
それから数ヵ月後。大きな屋敷のバラ咲く庭にリズの姿がありました。
人魚の象徴であるはずの尾鰭は無く、代わりに伸びる二本の足。魔女に願い、声と引き換えに得たものです。
「……っ」
今も歩く度に刃で刺されたような痛みが伴います。それでも自分を雇ってくれた主であり、念願の再開を果たしたスパーダ・ベルフォルマのためにティータイムの準備をするリズなのでした。
「どうしたリズ。どこか痛ぇのか?」
白いカップへ紅茶を注ぐ彼女に椅子に座るスパーダが尋ねます。リズは心配をかけまいと首を横に振って否定しました。
「そうか? ならいいんだけどよ……」
やや訝しげに呟いたスパーダですが、無理矢理納得をしてティーカップを口に運びます。
「……お、紅茶淹れんの上手くなったじゃん! 初めての時は飲めたモンじゃなかったがなぁ」
ゲヘへと楽しそうに笑うスパーダ。リズは人生初の紅茶を思い出し恥ずかしさが込み上げます。
それと同時にあんなに不味いものを出したのに側に置いてくれる主に感謝しきれません。
「あ、このケーキ半分食うか?」
「……」
「遠慮すんなって! どうせ食い飽きてんだから。な?」
まるで気の知れた友人に語りかけるような口調。リズは困ったように笑いました。
スパーダは貴族としての意識がやや薄く、親族にあまり良い感情を持っていません。そのため午後のティータイムは隠れるようにひっそりと楽しむのです。
ベテランの執事ではなく、同い年の新米メイドだけを連れて。
「オレら以外誰もいないんだから気にすんなよ」
「……」
「ほら」
フォークに刺したケーキをズイと差し出すスパーダ。こうなったら止められないと悟ったリズは、ちらりと周囲に誰もいないことを確認します。
「っ」
そして意を決し、差し出されるケーキをパクリと食べました。
「よしよし」
満足げにうなずくスパーダの笑顔。それだけで足の痛みが和らぐ気がします。
空は晴天。穏やかな日差しが大きな庭に降り注いでいて。
──このまま時間が止まってしまえばいいのに。
リズはぼんやりと思いました。
「……なぁ」
呼び掛けにふと我に返り、思案顔のスパーダに目を向けます。
「オレ、どこかでお前を見た気がするんだけど……。なんでだろ、うまく思い出せねぇ」
灰色の瞳が吸い込むリズの姿。
リズの両目は見開き、心臓は早鐘のように鳴りました。もしかしたらあのとき、意識が戻っていたのではないか。そう考えてしまいます。
「お坊っちゃま」
しかし彼女の思考はやって来たベテラン執事によって掻き消されてしまうのでした。
「どうしたハルトマン」
「あの方がおみえになっています」
「本当か?」
ハルトマンと呼ばれる執事の言葉にスパーダは目を輝かせ、残りの紅茶をグイと飲み干し椅子から立ち上がります。
「ご馳走さん。じゃあまたな」
リズの頭にポンと手を置き、足早に去っていきました。穏やかな時間が音を立てて崩れていきます。
「……」
一人無言で食器の片付けを始めるリズ。
スパーダが会いに行った相手……あの日リズ達のいる砂浜を通りかかったその人は、とても魅力に溢れる女性でした。
しかも貴族のご令嬢。敵うはずがありません。
──敵うはず、ない?
リズは自分の疑問に違和感を覚えます。一体何に対して敵うはずがないと思ったのだろう。考えれば考えるだけ混乱しました。
──性格も容姿も、スタイルも良いからかな。
思春期の少年がいかにも好みそうな体つき。スパーダの目が輝くのも頷けます。
彼に思春期独特の性的好奇心……いわゆるスケベ心というものが豊かに備わっていることをリズは知っているのです。
リズは自分の胸にピタリと手を当ててみます。
「……」
そして一人ひっそりと肩を落としました。奥底から溢れる想いに、蓋をかぶせるように。
スパーダと貴族の令嬢である彼女が婚約を交わすのは、もはや時間の問題となっていました。
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