アクマイザー

ハートランド
(相互御礼:まめた様へ)


教皇宮へ勅命の結果報告に訪れたシュラは、座しているはずの主の不在に気づいて足を止めた。
夜半ということもあり、誰もいない玉座の間はがらんと静まり返っている。
十二宮の通路は一本道だ。その道を上ってきたシュラと行き会わなかったということは、彼はさらに奥の間にいるのだろう。
明日出直すかと踵を返したシュラの耳に、夜風に乗ってかすかに歌声が聞こえてきた。
それは耳に届いたというよりも、セブンセンシズに目覚めている彼の超感覚に響いたと言ってよい。
穏やかな波紋が広がるような旋律にどこか懐かしさを覚え、シュラは振り返った。
「サガが歌っているのか…?」
ギリシアの古語交じりで届く聖句は、古くからこの地方に伝わるアテナへの賛歌だった。
甘く低く、風が流れて消えていくかのごとく密やかに、そしてどこか楽しそうに。聞き覚えがあるのも当然で、それはまだシュラが聖域へ着たばかりの頃、サガが修練の合間に教えてくれたものだ。
白いサガがこのように浮き立っている事は珍しい。いや、珍しいどころか教皇になりかわり聖域を支配するようになって以降は見たことがない。
シュラは迷わず玉座の後ろに垂れる緞帳の布を手で押し開くと、そこから更に続く女神神殿への通路に足を踏み入れた。


石壁で作られた通路を抜けると、そこには満天に煌く星空があった。スターヒルほどではなくとも、十二宮最頂にあるその空間は、境界のない自然のプラネタリウムだ。
しかし、シュラの目には夜空の美しさより先に、否が応でも正面の女神像が目に入る。無意識のうちにシュラは目を伏せ、視界から女神像を外した。
サガを正義としながらも、女神に対する畏れは時折彼を苛んだ。それとともに自分が手にかけた英雄の血肉の感触が蘇ってくる。シュラは頭を振って胸に去来する過去を振り捨て、代わりにサガを思い描いた。自分が探しにきたのはサガだ。
ここまで来れば聴覚で肉声を捉える事が出来る。柔らかなその声を追うと、かの人は女神像の前に佇んでいた。

彼はシュラが来たことをとうに気づいているだろうに、振り返りもしなかった。濃紺に金糸の縫い取りのある法衣をまとい、ふわりと裾をひるがえしては賛歌を繰り返す。楽しそうに女神像へ顔を寄せる。
まるで想い人へ囁く恋歌のように聖歌を紡いでいる。
「サガ」
遠慮がちにシュラが声をかけるも返事はない。
辛抱強くその場で待つっていると、何度目かの歌が途切れ、ようやくサガが振り返った。
その瞳は血のように紅かった。

邪眼がすっと細められ、シュラを睥睨する。
「シュラよ。わたしはお前に教皇の間を超えることを許したか?」
声色は静かだったものの、シュラはハッとして膝をついた。てっきり白い方のサガであるとばかり思い込んでいたのだ。目の前で瞬く間にサガの髪が艶やかな漆黒へと変わっていく。完全な闇の色となった髪を夜風にさらし、偽教皇であるサガは物騒な笑みを見せた。
「それで、何の用だ」
そう言われてみると、女神神殿への侵入を正当化出来るほどのこれという理由はなかった。ただ顔を見たかったと伝えてもこのサガには通じまい。アテナを称えるサガの声がとてもが楽しそうだったから─
「サガ、貴方が歌っていたのは賛歌では?」
違和感の正体に気づいてシュラは顔をあげた。歌うにしても何故そのような曲を選んだのかが判らない。女神をこの地から排除しようとしているのは彼ではないか。白サガならともかく、何故こちらのサガが。
問いに答えることなく問いで返した臣下の無礼を、サガは肩を竦めて許した。
「わたしが歌う事の出来るのは、アレの知る歌のみだ」
「だが、貴方は女神が憎いはずだ」
「わたしが?」
偽教皇が不思議そうな顔をする。何を言われているのか判らないといった風に。
「わたしが許せぬのは女神の無力だ。憎いわけではない」
そう返されるも、今度はシュラの方がその違いを理解できない。膝をつくシュラの横をふらりとサガが歩いて背後へ立った。背後から黒とも白ともつかぬ声が降ってくる。
「わたしは黄金聖闘士としてアテナを愛している。それがどのような無力な赤子であろうとも」
「しかし…!」
思わず振り返ったシュラに、黒サガはにこりと微笑んだ。
「それゆえに殺す。わたしに殺されるような弱い女神は必要あるまい?」

言葉につまった。忘れがちだが、彼はどこかが狂っているのだと改めて実感する。
それでもシュラは、満天の星を背に笑うサガから目を逸らす事が出来なかった。

「サガ…」
言いよどんでしまったシュラを見て、しかしサガは笑い出した。笑いながら天を見上げる。
「ク…ハハハ!本気にしたのか、お前は!」
「え?」
シュラが唖然と見つめる前で、サガは星の瞬きを目で追っていた。
「この場所は気に入っている。鬱陶しい仮面をつけずにすむのでな」
夜風がさらりとサガの髪を流す。
「仮面越しでなく空を見たら、歌いたくなった。そう、単なる気まぐれだ」
嘘を言っているようにも見えなかったが、彼の砕けた心からは、本気のままにでたらめが産まれてくることもままあった。真意を捉えようとすること自体が無意味なのかもしれなかった。

「気まぐれだろうと、貴方が神を讃えるなど似合わない」
突然胸に沸いてきた不満に、シュラは自分で驚いた。そのくせ、同時に自分の不満がサガの偶像化を望む理不尽なものであると押しとどめる気持ちもあるのだった。
(しかしこの男は神でなければならない。その力を持って地上とオレを救う義務がある)
戸惑いながらも止める事の出来ぬ奔流のまま、シュラは憑かれたように続けた。
「神は貴方だ。そうだろう?」
そうでなければ、神域を追われた女神は、英雄は。

黒のサガは暫し黙していたが、やがて満足げに手を差し伸べ、跪いていたシュラを立たせた。
「そうだ、わたしがお前の救いだ」
偽教皇は、こうして時折シュラの価値を塗り替えていった。シュラを仲間へ引き込む折に幻朧魔皇拳で破損させた正義感の代わりに、揺らぐ事のない信奉を埋め込んでいく。
少しずつ巧妙にシュラの中の主客を転倒させ、英雄を屠らせたサガへの依存を正当化させた。
そうする事によって、彼もまた自身のうちからも女神と射手座の影を塗りつぶしているのだった。

「わたしのシュラ。それではお前のために紡ぐ歌を、お前がわたしに教えてくれないか」
凶星のように煌く赤い邪眼にみつめられ、シュラはもはや逆らうことなど考えもせず、自分の主の指先へと騎士のように口付けた。


(2007/6/13)

[13年間]


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