アクマイザー

ソーテール


丑三つ時の巨蟹宮へ上宮から訪れる人間など限られているので、デスマスクはその侵入者に対して守護宮の結界を張ることはしなかった。
そのかわり、するりと寝台から起き上がって侵入者のもとへ向かう。
星も月も無い闇夜であろうと、聖闘士は小宇宙で相手を探索することが出来る。
深夜の来訪者は気配を糸のように細く抑えてはいたが、巨蟹宮の中でその主にまで小宇宙を完全に隠すことは不可能であるし、またそこまでするつもりは無いようだ。
今日の聖域の守護担当は金牛宮・巨蟹宮・麿羯宮・双魚宮の四宮であり、巨蟹宮より上宮には密かに女神に叛意を見せている反逆組しかいない。
そのような状態の中で、新月を選んで降りてくる人間など、心当たりは一人だけ。
宮内の通路へ出ると案の定、入り口近くの柱の影から長い法衣と銀髪が覗いている。
二つの心を持つうちの、心ならずも教皇を僭称することになってしまった方のその男は、床に浮き出す一面の死人の顔のなかに腰を下ろし、背を壁に預けて座っていた。

壁にも死面は無数に浮き出ているため、彼は顔で造られたオブジェの中に埋まっている美しい人形のように見えた。異形の空間でありながら見る者に嫌悪感を抱かせないのは、その男が清廉なる面差しと神のごとき慈愛に溢れた小宇宙を備えていたからだろう。
ただ、その面差しに生気はなかった。
澄んではいるが何も映さない泉のような青い目で、サガはデスマスクの方をチラリと見る。
恨みで醜く歪みつつも強烈な意思を発している数多の死者と、清らかな生者の無表情。
気力や生気は全て黒い方に吸い取られているかのごとく、普段の白サガは静かだ。
訪れたのが亡霊の妄執漂うこの場所を気に入っている黒い方のサガでないことを意外に思いつつ、デスマスクは声をかけた。
「よう。掃き溜めに鶴っていうのか?珍しいじゃん、アンタの方が来るなんて」
「…深夜に、邪魔をしている」
かすかに囁くような低い声で、それでも応えをきちんと返すところも黒いサガとは違っている。
もう一人の彼であれば、気の向かないときには平気で無視を決め込む。
「どうせなら俺の部屋まで足を伸ばして、夜這いと洒落こんでくれればいいものをよ」
「そして死人に囲まれて情を交わすのか。お前らしいな」
サガは冗談めかした蟹座の戯言を軽く流し、壁に寄りかかったまま目を閉ざした。目を閉ざして死者の声に耳を傾けている。
静けさの中、宮の死面たちのすすり泣く声や恨みの声が遠い波音のように床を浸しながら広がっていた。
「私が本当に救世主であれば、このような死者を出すことはないのだろうな」
サガがそっと傍らの死面の1つを撫でる。黒い人格が常に自らを救世主と呼んで憚らないことを自嘲しているのだろう。
「そうか?死者を出さない救世主なんていないと思うぜ。神の息子さんだって身代わりの名の下に自分を死なせてる」
「それは詭弁だ。それに、ここにある死面は、お前が殺した者ばかりだろう」
「ああ、そうだ。アンタが誅殺を命じたものばかりだ」
デスマスクの返事に、顔を僅かに歪めてサガが溜息をつく。
「せめて、成仏させてやれないのか」
「その方法を教えたら、アンタが成仏させてやるのかい」
その問いに肯定のまなざしで返事をしたサガの隣へ、デスマスクは歩いていって並んで腰を落とした。これも白いサガに対してしか許されない類の馴れ馴れしさだった。
「じゃあ、1番簡単な方法を教えてやる。俺をここで殺すことだ」
「何…」
「こいつら所詮、俺への遺恨でこの世に捕まってるだけだからな。満足すりゃあ勝手に成仏していく。たったそれだけでこの世への未練が断ち切れるなんて、安い妄執だとは思わないか」
蟹座の黄金聖闘士は、死者を全く畏れない。死面の数は自分の強さの証と言って憚らず、女神に対する叛逆の罪への良心の咎めもない。
サガは先ほどよりも深い溜息をついた。
「お前を殺すことなど、出来るわけがない」
「そういうところが甘いんだよなアンタ。じゃあ、もう少し難しい方法のほうを。アンタが本当に救世主としてこの聖域の神となれば、この宮の権利は女神からアンタに移行する。巨蟹宮の亡者など簡単にどうにかできるさ」
「……」
「だいたいなあ、黒サガの力ずくのところをアンタは嫌ってるようだが、そういう部分をアンタがフォローしてやれば、本当に救世主になれるんじゃねーの?」
「…私が奴に手など貸すはずが無い。お前には女神の聖闘士としての矜持は無いのか」
「黄金聖闘士としての誇りはあるが、”女神の”ってのはどうかな」
巨蟹宮の主は不敵に笑った。力こそ正義であると信ずるデスマスクにとって、現状の正義はサガであり、よって忠誠の先もサガ以外にはない。
デスマスクはサガに寄りかかると、その肩に頭を乗せた。
「俺の信条を叶えてくれるアンタは救世主だ。この現状が不満なら、アンタに従う俺達を殺せ」
サガは憂いを帯びた瞼を伏せたまま動かない。
デスマスクの頭を肩に乗せたまま、黙って静かに小宇宙を燃やし始めた。
その小宇宙は柔らかく優しい光を宿し、触れた者に安らぎを与えるような温かさをもって宮内を侵食していく。
サガの小宇宙に触れた死面は、穏やかな表情に変わっていった。
デスマスクは呆れたようにそれを眺めていたが、とりたてて邪魔はせず好きなようにさせた。
「アンタまさか、これだけの為に来たのか?この宮の死者を小宇宙でいっとき慰めるために」
「…浄化までは出来ないが、私の居られるこの時だけでも」
「アンタが去れば、また憎悪を思い出して恨み始めるだろーけどな」
無駄なんじゃね?と見上げるデスマスクに、偽教皇は生気のないままに微笑んだ。
「無意味なことかもしれないが…それでも何もしないで見ていることは私には出来ない。それに誰かを救うのには、殺すとか殺さないとか、そういう事を通さずに成したいのだ」
「フーン。俺、アンタのこと偽善者で嘘つきだと思ってるからなあ。話半分に聞いておくぜ」

まったくサガは嘘つきだとデスマスクは思った。
そんな事を言って、きっといつか彼の方も救世主になってしまうのだ。それも自らを磔にかけるような方法で。
命のやりとりを伴わない変革を望みながら、自分の事は平気で殺してしまいそうなサガ。
理想を求めても、優しさゆえにひとときの救いしかもたらせないサガ。
「そういうところ、嫌いじゃあないんだがな」
正義を標榜する蟹座の殺戮者は、あくびをかみ殺しながらもサガの発する慈愛に満ちた小宇宙浴の恩恵に預かった。


(2006/11/10)


ギリシア語では魚をIKHTHYS(イヒチュス)と言うらしいんですが、「イエス・クりスト(イエースース・クリストス)、神の子(テウー・ヒュイオス)、救世主(ソーテール)」のそれぞれのギリシア語の頭文字を集めるとイヒチュスになるっつーことで魚はキリスト教信者の隠喩みたいです。


[13年間]


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