茨姫の城
双児宮内部にある住居エリアの一室で本を読んでいたカノンは、兄の小宇宙を感じて顔をあげた。すぐに読みかけの本を机に放り、サガを出迎えに入り口へ向かう。
育ち盛りの少年が1日中誰とも顔を合わせることなく、部屋の中での隠れ住まいを義務付けられるのは相当に窮屈だ。
下宮の主が不在の日には、顔と小宇宙を隠して聖域外へこっそり遊びに出ていたカノンではあるが、普段はサガとのひと時だけが世界との繋がりを感じさせてくれる息抜きの時間だった。
この宮には結界が張ってある。
双児宮の迷路は十二宮において防衛上のシステムと表向き説明していたが、女神の降臨しておらぬ今、その用途は主にカノンを秘するための目くらましだ。
そのため、居住区内部へ自由に入ってくることが出来るのはサガしかいない。
他人が近づくたびに小宇宙で宮を覆うことは面倒であったが、ジェミニがその名の通り双子の存在であるという事実を隠すには、こうして外部との遮断を常とするしかない。
一応、上宮へ通り抜ける人間のために細い一本道を残してはいる。
何も知らぬ人間が入ると、外観のわりに随分狭い宮内だと勘違いするかもしれなかった。
十二宮へ来たばかりの頃は、莫大な小宇宙を消費する次元操作に慣れず苦労したが、その行為は計らずも良い小宇宙修練となったようで、今では二人とも息を吸うように他人の気を感知し、結界を操ることが出来るようになっていた。
「ただいま、カノン。下からの通りしなに金牛宮の従者が菓子をくれるというので、二つ貰ってきた。よく食うと思われたかな」
帰ってきたサガが、にこにこしながら簡素な紙袋を差し出したので覗きこむと、ドーナツ状のギリシア菓子ルクマーデスが入っていた。大きな揚げたてのそれはハチミツとシナモンがたっぷりかかっていて、甘そうだがカロリー消費の多い聖闘士の少年が修行後につまむにはぴったりのものだった。
聖域での厳しい修行生活では菓子どころか甘いものすらそうそう口に入るものでもなく、このように従者づきで自由な食事のまかないがあるというのは黄金ランクの聖闘士の特権といえる。
「サンキュ、ちょうど小腹が減っていたところだ」
手を突っ込んで1つ摘み上げるとパクリとそれにその場で食いつく。
指が汚れたがそんなことは気にしなかった。
サガがこうして外でも自分の事を気にかけていると実感するだけで安心する。
サガは何かを貰う機会のある折には、必ず2つ貰って帰ってきた。
1つしかない時には、それを半分にしてカノンに分け与えた。
双子座聖衣以外は…いや、聖衣ですらカノンと分かち合うつもりでいる。
正直、カノンにとってジェミニの使命などどうでも良いものだったが、サガにそれを言うと怒りだすので、最近では何も言わず聖域でのつとめに適当に付き合ってやっている。憂さは聖域外での不良行為で晴らした。
十二宮での窮屈な生活は、お世辞にも快適と言えない。それでも、サガにとっても自分だけが半身なのだと思えたので、小さな不満を溜めるだけでそれなりに暮らしてきた。
あの男が現れるまでは。
双児宮の入り口に、まさにその男の小宇宙を感知して、カノンは内心ゲンナリした。
黙って立ち上がると居住区の中でも奥にある隠し部屋に向かう。
サガも心得たもので何も言わずカノンを見送ると、自分は来訪者を迎えるために迷宮の一部を操作して居住区へと繋げた。
カノンが小部屋で身を潜めて直ぐに、その男の入ってくるのが感じられた。
彼の名は射手座のアイオロス。
サガ曰く、太陽のような小宇宙と悠久の風の気性を持つ黄金聖闘士らしい。
黄金聖闘士の感知能力からこの至近距離で身を隠すのは並大抵のことではなかったが、自宮の有利さにくわえ、小宇宙を漏らさぬ特別な仕掛けのある隠し部屋にいること、そしてカノンの長きにわたる潜伏生活の経験に一日の長があった。
なにかの折に双子座への来客があるときには、カノンはこの隠し部屋で息を殺すように待っていなければならない。
サガはそれを慮り、なるべく自宮での約束事などはとりつけぬように心がけていたが、今日のように突然立ち寄る同僚などは追い返す理由もなく、表面上は何でもない事のように笑顔で迎え入れている。
人当たりもよく黄金聖闘士としての実力も申し分ないサガは、周囲の人間から絶大な支持と好意を得ていたが、彼自身はカノンに遠慮して自分だけがその恩恵にあずかることを良しとせず、罪悪感からか心のどこかで他人に壁を作り、感情をセーブしているところがあった。
カノンはそれを知って昏い満足を得てはいたが、だからといって身を潜めるみじめさが軽減されるわけでもない。
それに、他人への好意を自戒して抑えるサガが、どういうわけか射手座の少年に対しては全幅の信頼を向けているようだ。アイオロスとやらの方がサガに対して、どのような感情を持っているのかは知る由もないが、双児宮を訪れる頻繁さを思えば、おそらくサガと同様に友情を感じているのだろう。
当たり前のようにサガに接し、その笑顔を受けるであろう射手座を思うと、カノンは隠れていることも忘れ腕を石壁に叩きつけたくなった。
別に射手座が悪い奴だとは思っていない。
サガが気に入るほどの相手だ。おそらくは仁智に優れ、聖域のかなめとなる実力をもつ選り抜きの黄金聖闘士なのだろう。
だが、彼が来るとサガが自分から離れていく。
聖域の影として育ったカノンには、そのこと自体に反吐が出る。
カノンにとってアイオロスは、兄を奪っていく聖域の体現者に他ならなかった。
一体どれだけ身を潜めていなければならないのかと覚悟をしていたカノンだが、意外とその時間は短かった。数分ののち射手座の小宇宙が宮を離れ、サガがもう大丈夫との合図の思念を飛ばしてきたのを感じて、ようやく肩の力を抜く。
隠し部屋から戻ると、再び宮に結界を張りなおしている兄がいた。
「巨蟹宮に用があったついでに、私の顔を見に寄っただけなんだって」
「そんな理由で来るなというんだ…オレの迷惑を考えろ」
むかっ腹を立てているカノンに苦笑してサガが宥める。
「仕方がないだろう、彼はお前の存在を知らないのだから…」
「ハイハイ、シオンのじじいを恨むことにするよ」
軽口を叩く合間にテーブルへ目をやると、そこには空になった菓子の紙袋があった。
客が来ているのにサガがそれを食べるわけもなく、カノンは不機嫌になる自分を抑えられずに確認する。
「サガ、菓子はどうした?」
「…ああ、アイオロスが訓練後でお腹が減ったと言っていたので、あげたんだ」
予想どうりだ。
「お前の食う分がなくなるだろう」
「私はそれほどお腹が減っているわけではないからね」
それは嘘だ。いや、サガにとっては嘘ではないのだろうが、たとえ空腹であったとしても1つだけの菓子を求めるあの男が居れば、あげてしまうのがサガだ。
おそらく、自分はもう食べたとか言って残り物をすすめるかのように与えるのだろう。
自分の飢餓はおくびにも出さず。
身のうちに残酷な衝動が走るのはこんな時だ。
サガは弟である自分には、何でも半分をくれる。
けれど、あの男には全てを渡してしまうのだ。サガの手元に何も残らなくてもだ。
菓子をサガの心に置き換えても、多分そうなる気がする。
カノンは乱暴にサガを引き寄せると、噛み付くように口付けた。
ハチミツ菓子の甘さの残る舌でサガの唇を舐める。
突然の弟の奇行に驚くサガへ「そういう味だった」とだけ残して、きびすを返し自室へと去る。
部屋に篭ったカノンは、先ほどのキスの感触を惜しむように自分の唇を指でなぞった。
「オレだって、全部欲しいのに」
無理やり奪った愛情の証は、苦い禁忌の味がした
(2006/10/31)
[13年前]