月覆う群雲
「よー、お兄ちゃん。元気だったか?」
「誰だお前は」
「何度も会っているのに、酷いなァ」
その男が現れるのは、決まって月が大きくて綺麗な晩だ。聖域にそぐわぬ異質な風体だというのに、何故か当たり前のように闇に馴染んで、何時の間にかそこにいる。
飄々とトボけた胡散臭い笑顔を向けられて、ようやく俺はその相手の事を思い出す。どうしてこんなに目立つ男の事を忘れてしまっていたのか判らないが、多分、どうでも良い相手だからなのだろう。現に名前も知らないのだ。
その男は俺を見て感心したように言った。
「へえ。お兄ちゃんてば、黄金聖闘士になったのか」
「ああ」
俺はたまたま戴いたばかりの聖衣を着ていた。月明かりを浴びた聖衣は光を反射して、それが目に入ったのか男は顔を顰めたが、直ぐにニィっと口元を緩めた。
「頑張ったじゃん?さぞかし弟くんとは差がついたろうねー」
「……!」
「あれ?黄金聖闘士になってもまだ、実力切迫ってやつ?」
悔しいがこの男の言うとおりで、弟のデフテロスは相変わらず独学で拳を磨いている。俺が教える事もあるが、それは知らないところで知らない技を身に付けられるのが怖いからだ。弟の実力は空恐ろしいほどで、聖衣さえ得たならば、双子座の俺にも匹敵するのではないかと感じる。そう、聖衣が弟にあったなら…俺が死んで、聖衣が弟のものとなったなら。
何故弟は俺の真似をして力を磨くのだろう。
この聖衣が欲しいのか?デフテロスにとって俺は邪魔者か?
最近のデフテロスは黙したまま、常に後ろから俺を見ていて、何を考えているのか分からない。
「それじゃ、いつ二番目に寝首をかかれるか判んないワケね」
心を読んだかのように、目の前の男が笑っている。
男は近付いてくると、顔を覗き込んできた。
「二番目に、差をつけたい?」
思わず俺は頷く。
「じゃあ、弟くんのまだ知らない事を、教えてあげよっかなー」
「デフテロスの、知らないこと?」
「まあ…言うなれば、大人への一歩ってヤツかなァ」
一瞬、男の目がネズミを捕るときの猫みたいに光る。
冷たい手が俺の頬に添えられ、ゆっくりと顔が近付いてきて。
そして、その後のことは、いつものように覚えていない。
もう暫くしたら、男の事も忘れてしまうのだ。忘れてしまえと何かが頭の中で囁いている。これはきっと夢に違いない。
何時の間にか聖衣は外れていた。何だか、だるい。
覚束ない足で、俺は泉を目指して歩き始める。全てを洗い流す為に。
(2009/12/14)
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