ブラックオパール1
タナトスにとって人間などただの玩具に過ぎない。
…そのはずだった。アテナとの聖戦が見事な敗北で幕を閉じるまでは。
自分のみならず兄弟であるヒュプノスまでもが人間に敗れ、結果、塵あくたにも値しないはずの存在に対する価値観を否応も無く訂正せざるを得なくなり、タナトスは思い返すのも腹立たしいとばかり、冥界の復旧に専念している。
冥界はハーデスが敗れたおりに一度崩壊したため、巻き込まれた魂が四散してしまった。
そのため、それらの魂を多次元から拾い集めるという地道な作業を強制されているのだ。
そのさなか、黄金聖闘士たちの魂を見つけることもある。ほとんどは勝手に女神の導きによって地上へと戻っていったが、ひとつだけ、どうしたことか次元の深淵から動こうとしない魂があった。
その魂がサガだった。
サガは自殺をしたという過去の経緯からも、甦り難い状態にあった。
地上の光よりも、冥王や死の神であるタナトスの引力の方にどうしても惹かれてしまうからだ。
タナトスの力を持ってすれば、地上へ送ってやれない事もなかったが、女神などのためにそのような手助けをしてやるつもりは毛頭無かった。また、それは勝者への小さな意趣返しでもあった。
黄金の魂を捕らえたタナトスは、それを自分の離宮へと運んだ。
ほとんど消えかけている魂の光に、自分の小宇宙を注ぎ込んで補正をする。
それは結果的に治癒とはなるものの、死の神の小宇宙を受け入れるという事は、それだけ生から遠ざかるという事でもある。
すっかり女神の小宇宙が届かなくなった頃に、サガはようやく目を覚ました。
柔らかな寝台に横たえられていたサガは、起き上がると不思議そうにあたりを見回した。
自分がどこにいるのか、全く理解出来ていないようだった。
近づいてきたタナトスを見ても警戒するそぶりが無い。
サガは冥界の神々を見たことが無いので、ペガサスと同じようにこちらを単なる冥闘士とでも思っているのかと最初は考えたが、テレパシーを使い意識を読むに、どうもそうではないらしい。
この双子座の聖闘士は、自分の身を護るという事に関して、どうでも良いと投げ出しているのだった。
嘆きの壁において使命を果たした時点で、あとは過去の罪を自身とともに消滅させることだけが彼の望みであり、転生を待つばかりであるはずの己が何故まだ意識を持っているのか、納得のいかない様子でいる。
タナトスはサガの乗る寝台へと自分もまた腰を下ろした。
「これはまた、随分と死に対して積極的な人間だ…その様子ならば、お前を此処へひきとめたことを、女神に後ろめたく思う必要もなさそうだな」
女神の名を出すと、途端にサガの表情が聖闘士のものとなった。
その変化が面白くて、タナトスはまじまじとサガの顔を舐めるように眺めた。
気分を害したのか、サガの眉間へ僅かに縦皺が寄る。
「ここは一体…貴方は何者なのだろうか」
それでも一応、敵と断定できるまでは礼をとるつもりらしい。その生真面目さにタナトスはますます嘲笑を浮かべた。
「オレの名はタナトス。そしてここはオレの離宮のうちの一つだ」
その名を聞いて、サガの目が見開かれる。
「冥王の従神がここにいるということは、聖戦は終わっていないのか?」
「…安心しろ。既に全て終わっている」
冥界の敗北までを伝えるのは業腹で、言葉を濁しておく。それでもサガは安心したのか、一瞬高まった小宇宙が静まり、また元のなげやりな気色が表情に表れた。勝敗の結果は伝えていないのに女神の勝利を信じきっている様子であり、そして地上が無事であるのならば他の事は全く興味が無いといった風情だ。
神を目の前にして、髪の毛一筋ほどの動揺すら見せない反応が不満で、タナトスは少しこの男を脅してみることにした。
「聖戦とは関係なく、オレは死者のお前を死の神として自由にすることが出来る。再びコキュートスに送り返してやろうか。それとも別の地獄を希望するか」
しかし、サガの表情が変わることは無かった。
「どこでも良い。好きにするがいい」
どうやら、恐怖や痛みでは、反応を引き出すことが難しそうだった。
それならば、別のやり方がある。
「態度を改めた方が良いのではないか?オレは地上にいるお前の弟へ、再び死を与える事も造作ない」
身内を使って脅すつもりでそう言うと、効果はてきめんだった。自分への攻撃は恐れぬ者も、大切な相手が傷つくことは極度に恐れるものだ。殊に聖闘士はそのきらいがある。
しかしその効果はてきめん過ぎた。結果は期待したのとは逆の方へ働いた。
サガは黙ってタナトスを見た。神すら底冷えするほどの昏く黒い深淵の小宇宙が彼から噴きあがった。
それでもタナトスの方は、まだサガのことを見くびっていた。たかが人間と思うクセが抜けていない。
人間が多少怒りをみせたところで、その怒りを誇りごと打ち砕く方法を取れば良いと判断する。
タナトスは安易に、サガの身体へ手をかけた。
「言っても判らぬのならば、その体に教えてやる。身の程というものを」
幸い、サガはタナトスが弄んでも良いと思う程度には整った造形をしている。いや、今までみた人間の中では一番といっていいくらい見目麗しい。神にもこれほどの容姿を持つものはそう居まい。
刃のような視線を気にも留めず、サガの両肩を押さえ込むようにして寝台へと沈ませる。
その腕の下で、サガの気配が一気に変わった。
それまで、氷のような透明さと深淵の闇が交差していた精神体が、熱いガラスを溶かすように捻じりあい混ざりあい、不思議な光を持って統合されていく。
そして、サガという人間の魂の殻の内側から、隠されていた核ともいうべき何かが一気に表層へと顔を出した。それと同時にタナトスの手が強制的に弾き返される。
人の範疇を超えた小宇宙が、サガの身体からたちのぼった。
タナトスの瞳が驚愕で揺れる。
「この小宇宙は…まさか、アーレス!?」
精神を統合したサガは、冷えた視線でタナトスを見上げた。
「今はサガだ。私は、双子座のサガ」
サガは氷のような瞳のままに、今度は逆にタナトスの両肩へと手を差し伸べた。
「身の程を教えてくれるそうだな…面白い。この私に触れようとするものなど、誰一人としていなかったというのに」
真実と虚実の重ねられた言葉を、歌うように紡いでいく。
タナトスが慌てて離れようとした時には、両肩をつかまれ、身体ごと引き寄せられていた。
「授業料として、多少はお前を楽しませてやろう」
サガの瞳が紅く光る。災いと争いの興奮をもたらす戦神の邪眼だ。
視線が交差すると、タナトスの意思などおかまいなく視界が赤く染まった。中心から炙りだされる愉悦と快感に身体が震える。
「お前が、何故、女神の聖闘士など…」
掠れる声で問うも、その答えが返る事は無かった。
「私を起こした貴様が悪い」
サガはそう言うと、ゆっくりと口元だけで微笑んだ。
(2008/4/1)
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