アクマイザー

海水浴


地平線にまで広がる青空、白い砂浜、きらめくエメラルドの海。
典型的な南の島で、しかしサガは途方にくれていた。ちょっと欝も入っている。何故かと言えば、見渡す限りの美しい海原には、数多の魚が白い腹を空へ向けて浮かび、波打ち寄せる足元には小蟹や貝などの磯を彩る生物たちが、これまた死骸となって打ち上げられているのだ。
原因は分かっている。死の神であるタナトスが、この渚で水浴びをしたからだ。
「貴方と海へ行ってみたい」
サガはこの美しい光景をタナトスと眺めたくて誘ったのだったが、少し考えてみればこの結果はすぐに予想できたことだ。普段はエリシオンの泉や川で当たり前のように水と戯れていたため失念していた。死の神が生の世界でもたらす影響力というものを。
しかし、それだけならば欝だけですむ。数多の命へ頭を下げ悼みつつ、それらの死骸が海を汚さぬようアナザーディメンションで飛ばしてしまえば済んだ。
途方にくれているのは、この惨状に気づいたポセイドンが、ジュリアンの姿を借りて苦情を伝えに現れたからなのだった。

サガの目の前では不穏な小宇宙をまとわせた神二人が、互いに引かずに睨みあっている。人間の感覚で考えれば、理があるのはポセイドンの側だと思う。しかしタナトスも引かない。死を否定することは己の否定にも繋がるからであろうが、それだけではなく、どうも微妙にサガを庇っているように見える。ポセイドンはまだそれに気づいていないようだが。
呆然としていたサガは、そこではっと我に返った。
神とは自然そのものでもあり、ポセイドンの支配する海もタナトスの司る死も、それ自体は善悪どちらでもない。死の神が死をもたらすのは当然のことであり、この災禍の原因を問われるべきは、タナトスを海に連れ出した自分にあるのだ。
つまり、神の目線で判ずれば、負うべき咎もサガのものとなる筈だった。だからこそ、タナトスは引かぬことによってサガを庇っているのに違いない。
思わずサガはニ神の間に割って入ろうとしたが、タナトスがそれを小宇宙で制した。
その合間にもポセイドンの怒りは増していく。聖戦の折、ポセイドンがエリシオンへ向けて飛ばした黄金聖衣を、タナトスが瞬時に粉砕したという因縁もある。
ジュリアン姿のポセイドンはまだ余裕のある態度でいるものの、背後の海が次第に荒れだしている。
このニ神の反発が高まれば、一帯は嵐と死によって、とてつもない被害が出るだろう。バカンスどころの話ではない。
黄金聖闘士の頂点を自負するジェミニとはいえ、自分ひとりでは彼らを止められそうにないと判断したサガは、窮余の策として弟を頼った。
(カノン、すぐに来てくれ!大至急だ!)

これほど身もふたもなく弟を頼ったのは、聖戦後始めてかもしれない。海界で仕事をしている弟を呼び出すのは気が引けたが、このままでは海界とて被害を負う。小宇宙通信であらましを伝えると、時間を置かずしてシードラゴン姿のカノンがテレポートで現れた。
カノンはちらりとニ神を一瞥し、それからサガを見て呆れたように肩をすくめている。
「お前が悪い」
「判っている」
「オレがポセイドンを宥めるから、お前は二流神を抑えろ」
「出来そうか」
「やるしかないだろう。ひとつ貸しだからな、サガ」
「…すまん」
双子は同時にニ神の間へと立ちはだかった。
背中合わせにそれぞれの神へと向かい、神の気を自分へと向ける。
まず口を開いたのはカノンだった。
「ポセイドン、被害に対する苦情を伝えに来た貴方が、被害を増やしてなんとする」
「カノン」
海神がジュリアンの顔で目をしばたかせる。背後の波が僅かに凪いだ。海将軍の中でもシードラゴンはポセイドンのお気に入りなのだ。とはいえ、真の怒りに荒れ狂う海神の怒りを抑えることはカノンにも難しい。現状はまだ話し合いの余地がある状態であったということだろう。
「海のものたちが怯えている。その怒りをもう少しだけ抑えては頂けまいか」
過去に謀った神相手だというのに、卑下もせず毅然とカノンは要求を述べる。
弟の言葉を背中に聞き、サガはこのような時であるにもかかわらず内心で感嘆した。だが感嘆してばかりではいられない。本来であれば混乱の原因である自分が、このニ神の対立を和らげねばならないのだ。
「タナトス、私を庇っての気遣いを申し訳なく思う」
サガもまた、真っ直ぐに死の神を見つめながら想いのたけを込める。
「だが、貴方に迷惑をかけるわけにはいかない。己の責は己で負うべきもの。私がポセイドンに謝罪をすることを、どうか許してくれ」
タナトスはとても気まぐれな神だ。人を庇う事などまずない。
その滅多にない好意を無碍にするようで、申し訳なさに身がすくむけれども、やはりここは自分が謝るべきなのだ。
怒りを覚悟で申し出たサガをタナトスはじろりと睨む。
しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「フン、お前はそれほどまでにポセイドンの方が良いのか」
「…は?」
話の繋がりが全く見えず、サガにしては珍しく間の抜けた疑問符がこぼれる。
「お前が地上を好むのは、女神の聖闘士ゆえ仕方があるまいと流してきた。しかし、我が主の界よりもポセイドンの領域を褒めるだけでなく、それをオレに見せ付けるだと?」
「………何の話だろうか」
「この海だ!面白くないからオレの属性をかぶせてやった。ポセイドンのあの顔を見たら、少しだけ溜飲がさがったがな」
「…え、ええええええええ!?」
ようするに八つ当たりだ。
ある意味サガが原因であることに変わりは無かったが、想定外すぎる(タナトスらしくはある)勝手な理由に、サガの目が点になる。それでは完全にタナトスが悪い。
会話が聞こえたのか、後ろでせっかく凪ぎかけた波が荒くなりはじめている。それは怒るだろう。だがタナトスに正論を説いても始まらない。彼のみならず、神とは理不尽な存在なのだ。
サガは懸命にタナトスの機嫌をとった。
「確かに私は、生の世界を美しいと思っている。地上も海もそれは変わりない。しかし、それは死という終焉が最後に受け止めてくれるからこそ輝くのだと思う」
「フン、今さら褒めても」
「いつか訪れる死にむけて、どんな小さな命も懸命に生きるのだ。それを貴方自ら奪うなど…私は、悲しい」
「……」
「お願いだ、そのような理由であるのならば、この海の生き物たちの命を返してやってはくれないか」
「………」
サガのすがり付くような懇願を見て、背後でポセイドンがぼそりと呟いている。
「カノン、お前もあの方式で私を宥めてみろ」
「お断りする」
「兄の殊勝さを見習おうとは思わないのか」
「サガが殊勝だと思ってるのなら、大きな勘違いだぞ」
「お前の態度しだいで、許してやっても良いのだがな」
「………」


結局、タナトスが奪った命を元に戻す事によって手打ちとすることと相成り、ポセイドンは海の生き物たちの身体を修繕し、タナトスが黄泉比良坂の表層に浮かんでいた海の命を汲み上げ詰めなおした。ぞんざいなタナトスの作業ゆえ、2〜3のプランクトンの魂の詰め間違えがあったものの、ポセイドンはカノンとのデートをもぎ取り上機嫌で、細かい事は気にしない。
全ての命が息を吹き返し、白浜に元通りの平穏が訪れると、ポセイドンはその一帯へ結界を張った。
「この結界の中でなら、死の影響力も及ばぬ」
ということで、その内部ならばタナトスが浸かっても問題ないらしい。
海辺で過ごすのならば、その範囲内で遊べということだ。

紺碧の海を前に、当然のごとくサガの身体を抱き寄せるタナトスと、カノンを傅かせるポセイドン。
ポセイドンに従いつつも、こちらを半眼で睨んでくるカノンに、サガは心の中でぺこぺこと頭を下げるしかない。終わってみれば1番のとばっちりはカノンが被っていたのだから。
(カノン、すまない)
(全くだ)
(だが、お前も海神との休暇をとりつけることが出来てよかったな…?)
(今日の仕事が遅れる)
(しかしポセイドンは喜んでいるようだぞ。主の心身メンテナンスも海将軍筆頭の仕事だろう)
(…まあな)
そう、カノンとて海神のことを嫌いなわけではないのだ。何だかんだ言って、ポセイドンとの休暇を満喫するのではなかろうか。
そのように都合よく考えることにして、サガはタナトスに意識を戻す。
全く持って迷惑で我侭なこの死の神のことを、どうして嫌いになれないのか、自分でも判らない。

弟にはあとで飛び切りの酒でも贈ろうと思いつつ、サガはタナトスの肩に頭をもたせかけた。

(2009/7/28)


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