箱庭遊戯のはじまり
サガとタナトスの暮らす新居の隣には、カノン用の離宮もある。サガの輿入れが決まったとき、カノンは弁舌と手腕をフルに駆使して、ちゃっかり自分の居場所をエリシオンに確保したのだ。
ちなみに用意してくれたのはヒュプノスだ。タナトスとサガ、それぞれに対する微妙な思惑をもつ二人の間で、利害が一致したというわけだ。
そんなわけで、双児宮にいた頃と変わらぬ頻度で、足しげくサガを訪ねる弟である。
さすがに夜間は遠慮するものの、タナトスが仕事で留守の間は、自分の家のごとくリビングで寛ぐカノンであった。
「なあ、お前らどういうきっかけで結婚なんてする羽目になったんだよ」
今日もカノンはソファーにどっかり腰を下ろして存在感を主張している。長い足を無造作に組み、地上では手に入らない極上の神酒をちびちび舐めながら、カノンは何気ないふりでサガへ話題をふった。
サガは柔らかな笑みを変えることなく、弟の盃へ手酌でお代わりを注いでやる。
「そうだな…まだ話したことはなかったか」
サガのまなざしは遠くをみつめるものとなった。その時のことを思い返しているのだろう。
兄弟でありながら、いままで結婚のいきさつを聞いていなかったカノンは、内心のざわめきを押しとどめつつ、サガが話し出すのを待った。
爪先まで整ったサガの指が、神酒の入った長首のアンフォラの縁をなぞってゆく。吐息を零すように、サガの唇から過去が語られ始めた。
「あれはたまたま、所用で冥府を訪れていた時のことであった…」
聖域からの書状を無事パンドラへ届け終え、サガは黄泉比良坂を目指していた。
冥界へ繋がる現世の『穴』は世界各地に散在しているが、デスマスクが巨蟹宮から黄泉比良坂へ道をひらき固定化しているため、そこを通るのが一番安全かつ近道だ。
同盟界へ書状を運ぶだけの外務員的な仕事は、本来黄金聖闘士の職分ではない。しかし、届け先が冥府という場所柄のため、一般事務官はおろか、白銀以下の聖闘士では足を踏み入れることが適わないのだ。
足早に熱砂の谷を抜け、二の谷へ入りかけたそのときだった。
宙から現れた腕が、空間を越えてサガを無理やり別場所へと引き込んだ。
油断していたわけではない。サガは冥府へ降りるための必須条件・エイトセンシズまで小宇宙を高めている。しかし、相手はそれ以上のランクの力と小宇宙を持っていたのだ。
もちろんそれだけならば、サガはすぐに反撃に出ただろう。だがサガはその小宇宙に覚えがあった。自死した己にはひじょうになじみの深い、死の神タナトスの小宇宙だ。冥府と聖域の間には和平が結ばれている。よって敵対意図であるとは思いにくい。
どこか必死な感覚が伝わってきたことも気になり、サガは大人しく拉致を許して様子を見ようとした。
そして、移動させられた先で目にしたのは…大勢のニンフに囲まれてアタック(死語)を受けているタナトスの窮状なのであった。
「一体なにごとが…」
尋ねようとしたサガをさえぎり、タナトスが声をかぶせる。
「すまぬオレのニンフたち。可愛いお前達に対して優劣をつけることなどオレには出来ん。それに、オレにはこの者がいるゆえ、お前達のなかからひとりを選ぶわけにはゆかぬのだ諦めろ」
どうやら、ニンフたちの求愛がヒートアップしすぎて、タナトスが危機感を覚えるほどになっているようだ。聖闘士のうちでは評価が低く二流神扱いの彼も、ニンフたちの間では何故か大人気なのだ。海界の人魚達の間でも人気らしく、カノンが「あいつらの趣味はわからん」と首を捻りながら話してくれたことがある。
ファンの大群に圧死しそうなアイドル状態のタナトスが、小宇宙通信でサガへ意思を伝えてきた。
『少し話をあわせろ』
『それは構わないが…何故わたしなどを…』
普通、こういった場面で恋人の代役を頼まれるのは女ではなかろうか。
その疑問は、心を読み取ったタナトスによって、すぐ答えられる。
『ここで女を代役にたててみろ、その女に勝とうと余計に競争が激化するぞ。それに万が一その者へ悪意が向かったら如何する』
『それはそうかもしれぬが』
『競争相手とならぬほどの女神に頼むのは後が怖い。たとえばあの小娘…アテナなどは絶対にごめんをこうむる』
『我がアテナに失礼な』
『とにかく、それならば、競争にならぬ相手を差し出せばよい。オレが男のほうを好むと勘違いすれば、多少は迫ってくるニンフも減るはずだ』
『冥闘士に頼めばよかろう』
『冥闘士は一人残らずハーデス様の持ち物。勝手に私用で借りるわけにはいかん。冥府で自由に動け、ニンフたちが納得して引き下がるほどの男を近場で探していたら、丁度お前が探索にひっかかったのだ』
相当勝手な言い分ではあるものの、同じ男として助けてやらねば気の毒そうな状況ではあった。
そうなるとサガは生来親切な人間である。助力を請われて無下にできぬ性格でもある。
元敵神ではあるものの、かつて死の平安を与えてくれたタナトスに対し、恩義を返すつもりでサガは助け舟を出した。タナトスを庇うようにして、幾重にも取り囲む大勢のニンフたちへ訴える。
「タナトスの言うとおりだ。皆には申し訳ないが、わたしは彼と将来を約束している。だからといって独占するつもりはないし、浮気にも目をつぶるつもりでいるゆえ、この場は一旦わたしに彼を貸してはくれまいか」
「そうそう、オレはこの男と結婚の約束を…なんだと!!!?」
水が引くようにニンフたちの攻勢は収まったものの、あとには真っ青になったタナトスが立ち竦んでいた。
「のちに知ったのだが、神は嘘をつけぬそうだな。ラグナロクが起きてしまうゆえ…」
うっとりと幸せな思い出を語るごとく述べたサガの目の前で、カノンはテーブル上へと突っ伏している。
何とか腕を杖がわりに上半身を起こしたカノンは、あらんかぎりの声で兄へ怒鳴った。
「貴様は馬鹿だとは思っていたが、本当にそら恐ろしいほど馬鹿だな!」
「話せというから話したのに、人の馴れ初めにケチをつけるつもりか」
「あの男はいけ好かない神だが、いま心底同情したぞ。やはりお前は真の悪だ!」
「なんだと!」
久しぶりの兄弟喧嘩に発展するかとおもわれたが、カノンの側が怒声をおさめ、代わりに困ったような顔でサガに問いかける。
「あの男と結婚して、お前は幸せか?」
サガは暫し押し黙り、それからフッと笑みを浮かべた。
「毎日が楽しい」
兄の返事を聞いたカノンは、泣きそうなくらい、もっと困った顔をした。
(2011/4/1)
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