捩れたカルマ3
時の流れぬ常闇の底でまどろんでいたシオンは、突如眠りを妨げる声を感じた。
どろりと形なく溶けていた自我が、その声によって急速に人としての形に戻される。
(誰だ、うるさい…)
それが、死者としての眠りを妨げられたシオンの、最初の意識であった。
次にシオンがしたことは、声の主を睨むために目を開けることだった。
そしてそれをなす事により、冥界において存在せぬはずの肉体が、己に備わっている事実に気づく。
柩の中から身体を起こし傍らを見ると、瓦礫に腰をおろして座る長髪の青年がゆるりと振り向いた。
反逆者ジェミニ。黄金聖闘士でありながら、聖域の最高位・教皇シオンを手にかけた男。
己を殺した男がすぐ側にいる事で、シオンはこの場がスターヒルにおける惨劇の続きであるかのような錯覚に陥った。
(儂は死んだ筈ではないのか?)
サガに胸を貫かれ息絶えたと思っていたのだが、九死に一生を得たのか。
(いや…あのダメージで助かるはずがない)
戦士としての冷静な判断が、その可能性を直ぐに否定する。
なによりサガの姿がその時とは異なっていた。
シオンは眉を顰めた。黄金聖闘士であったはずのサガが、今は闇色に煌く闘衣を纏っている。
「お主、魂を堕したか」
前聖戦を生き抜いたシオンは、その闘衣が冥衣と呼ばれる魔星の印であることを知っていた。
しかし、シオンの知るサガは、悪心に引きずられる事はあったとしても、他者に傅くことなど出来ぬ男だったはず。その相手がたとえ神であろうと。
(儂の死後に一体何があったのだ)
殺された後の聖域について、シオンは知る由も無い。
その疑問を読み取ったかのように、サガが口を開いた。
「わたしは死ぬことによって女神のくびきから解き放たれ、己の宿星を知る事が出来たのだ」
かつて殺害した教皇から刺すような視線を受けても、サガは動じることなく微笑みを向けた。闇の側にありながら、神のごとしと讃えられた彼の輝きはなんら損なわれていない。
戦天使もかくやと思われる美しさを持ち、それでいてどこか深淵をを感じさせる彼に、シオンはますます顔を顰めた。
「愚か者が。おおかた聖域の掌握を果たせず、誅殺されたのであろう」
「…確かにわたしは、貴方を死に追いやったあと直ぐに射手座に討たれた。女神も無事でいる」
低くおっとりとも聞こえる柔らかさで、シオンに告げる。彼はそう言いながらも、全く悔しそうには見えなかった。サガの言葉と表情は見事に乖離していた。
シオンは女神の無事を知り、まずは安堵した。それさえ知れば、この世に未練などない。
しかし、続くサガの言葉でシオンの思いは打ち砕かれることになる。
サガは瓦礫から立ち上がり、シオンへと近づいて柩の脇に膝をついた。
「貴方を起こしたのは、わたしと同じように、冥府での新たなる生を享受する選択を与えるため」
「何?」
「冥王軍へ与しませんか、シオン様」
途端、シオンのまなざしに激しい侮蔑と怒りの色が混ざる。
「…耳が穢れるわ。そのような下らぬ理由で儂を起こすとは」
己が聖域に叛意を見せるかもしれぬと思われた事は心外であり、最大の侮辱でもある。
「死したとて、聖闘士たる者が冥王に膝をつくことなどありえぬと知れ」
にべもない拒否の前でも、サガはその穏やかな語調を変えずに言葉を紡いだ。
「貴方もハーデス様にお会いになれば、あの方の素晴らしさを知ることが出来るだろう…それに、冥府側についた聖闘士はわたしだけではない」
ふっと瞬間、サガの視線がシオンと絡まる。走狗に似合わぬ瞳の真摯さがシオンをはっとさせた。
「わたしは貴方の言われるように愚かゆえ、死ぬまでハーデス様の偉大さを知る事はなかった。しかし、琴座のオルフェなどは生きながらにして恋人を追って冥府へと下り、そこでハーデス様の威光を知ったのちに、そのままこちらで暮らしている。貴方も彼に倣ってはいかがか」
「……!」
シオンは驚愕を抑えられずサガを見つめ返した。
裏切り者の戯言としか思えぬ言葉のなかに、重要な鍵が隠されているのが判ったからだ。
それも聖戦を左右するほどの。
サガほどの男が、意図せず情報を漏らしてしまったのだとは思えない。
罠かとも思う。しかし、サガはフイと視線をそらしてしまい、その瞳から真意を伺うことは出来なかった。
「それはまことか、サガ」
「嘘は申し上げません。…多少は心を動かされただろうか?」
シオンが黙ると、サガは更に言葉を続けた。
「聖域の細部まで知る前教皇の貴方が味方となって下されば、冥王軍としては大変有難いのだが。そう、何の引継ぎも受けていないアテナ軍の現教皇アイオロスよりは、よほど頼りとなるだろう」
今度こそシオンは慄いた。二百余年を聖域の長として君臨した教皇には、サガの言葉の裏に隠された意図がはっきりと読めたのだ。
だが、聖域の反逆者であり冥闘士であるサガを、信じてよいのかが判らない。
(いや、たとえ罠であれ、この誘いを受ける以外にない)
過去の栄光を捨て、冥府の犬となりさがる屈辱を受けても。
「協力をお約束いただければ、永遠の命と若さが貴方に与えられますよ、シオン様」
サガは再び神のような微笑を浮かばせ、甘くシオンを誘った。
勧誘の成功を報告するため、ジュデッカへ向かっていたサガは、ふと足を止めた。
「ラダマンティス、いるのだろう?」
言葉と同時に、廃墟の影が形をとり、翼竜の姿となって現われる。
「フン、気づいていたのか」
「お前に、鼠のような隠密行動は向いていないし、似合わん…おそらくシオンにも気づかれていたろう」
笑うサガを前にしてラダマンティスは不服そうだ。
「…お前等でなければ気づかれぬ自信がある」
サガの笑顔は先ほどシオンに見せた微笑とは異なり、情人にのみ見せる親しみの篭ったものだ。
「わたしを監視していたのだな」
「ああ」
「元聖闘士が前教皇と会うことに不安があったというわけか。そのような諜報は部下に任せれば良いものを。いつもは冥界の蝶を使うではないか」
「お前のことは、オレが直接確かめておきたかった」
無骨に告げるラダマンティスに対して、サガは悪戯っぽく顔を覗き込む。
「わたしを信用できないか?」
「全く出来ん。勝利の妨げとなりそうな不安要素は、少しでも潰しておくのがオレのやり方だ」
肩を竦めて言い放つ翼竜をみて、サガは噴出した。
「恋人であっても甘さを見せぬ、お前のそういう融通が利かぬほどの真面目さが好きだよ」
「お前はオレの側にあっても何を考えているのか判らん。先ほどのあれは何だ」
シオンとの会話を指しているのだろう。
サガの答えは簡潔だった。
「以前に話したアイオロスをおびき出す囮として、前教皇を使う」
「なんだと」
「パンドラ…様の許可はとってある。『適宜に使い捨てよ』とのお言葉だった。彼女は冥闘士を使うよりも、元聖闘士を手駒として冥王軍の兵力を温存することをお望みだ」
「今、呼び捨てにしかけなかったか。いやそれよりも、三巨頭を差し置いて勝手なことを」
「では、今許可を貰おうかな」
まるで悪気なくサガが言うので、ラダマンティスは溜息をついた。
「オレはお前を信じてよいのか」
「いいや」
サガはあっさりと首を振った。そう返されるとラダマンティスとしても大層困る。
「それでは許可をだせん」
「何故?シオンがこちらを裏切るような素振りをみせたら、かりそめの命は直ぐに消えるというのに」
「それはそうだが…」
「ラダマンティス」
ものを頼む立場であるというのに、サガはまるで自分の言い分が通るのが当然であるという態度でいる。ラダマンティスの前でだけ、時折サガはそういう姿勢を見せた。
「…お前への気持ちと、アイオロスを倒したいという願いには、嘘はない」
「その言葉で妥協しろと?」
盛大な溜息を再度こぼし、それでも最後にはサガを許すだろう自分にラダマンティスは苦笑する。
「フン、パンドラ様の意向でもあるのなら、オレが覆せるわけもない。だが、ハーデス様を裏切るようなことがあれば、お前であっても容赦せんぞ」
「そうしてくれ」
サガは僅かに浮かばせた憂いの表情を隠し、ラダマンティスの手を引いた。
「お前は本当に何を考えているのか判らん」
翼竜はそうぼやくと誘う恋人の身体を抱きしめ、パンドラへの報告前にサガが己と暫しの寄り道をすることへの許可も下した。
2008/6/21
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