未来の幽霊
後味の悪い夢を見たような気がする。さりとて、このまま目覚めてしまうほど現実に惹かれもせず、意識を再び眠りに沈めようとしたら誰かの手が暖かく頬に触れた。
「サガ、早く起きないと遅刻するぜ?教皇が寝坊というのも体裁悪ぃだろ」
ああ、この声はカノンだ。カノンが私よりも先に起きているというのは珍しい。しかし、教皇というのは何のことだろう。
私はゆっくりと目を開けた。そこはもう暗闇ではなく、覗き込んでくるのは私と同じ顔をした双子の弟。
カノンは、まるで保護者のように私の額へおはようの口付けを落とした。
「朝食の用意が向こうに出来てる。ヨーグルトは今朝がた村の連中が持ってきてくれたやつだ。サガはあれにタイムのハチミツを混ぜるの好きだったよな」
「……」
起きぬけだからと言うわけではなく、私は恥ずかしながら直ぐにはカノンの言っている意味を理解できなかった。
まんじりと弟を見つめ返した後、浮かんだ言葉も凡庸だ。
「教皇というのは、誰の事だ」
「はあ?」
カノンが呆れたような声を出す。
「まだ寝ぼけているのかよ。お前以外に誰が教皇だというんだ」
「馬鹿な」
はっきりと目が覚めて、寝台の上へ起き上がる。
「では、ジェミの聖衣は誰が」
「オレに決まっているだろう。朝から失礼だなお前」
カノンが気を悪くしたような顔で、私の鼻を指で弾く。それを避ける事も出来ずに私は唖然としていた。
「…私が教皇なら、アイオロスは?」
「射手座だろ。お前が始終補佐としてこき使っているようだが。なあ、さっきからどうしたんだ、サガ」
寝台脇へ立っていた弟が、シーツの上へ腰を下ろしてくる。
「執務のしすぎでネジが飛んだか?疲れているのなら今日はオレが代わろうか」
言葉は悪いものの、その声色には労りの気持ちが篭っていた。
片手が伸ばされ、額に押し当てられる。熱を計る動作だと気づいたのは一瞬後だ。
悪童であった弟が、心から私を心配している。触れたてきたその体温が心地よい。
ほんの僅か、流されても良いかと思った。だから、次の言葉を搾り出すのには時間がかかった。
「…私に触れるな」
カノンが驚いた表情で手を離した。
思いもよらぬ事を言われたとでもいうように目を丸くして、それから傷ついた顔までしてみせている。
「何を言っているんだ、兄さん」
「私を兄と呼んでいいのは、本物のカノンだけ」
「だから、オレだろう」
私はシーツの上の手を強く握り締めた。
「確かに私は、こうあって欲しいとかつて未来を願っていた。これは私の浅ましい望みか」
「サガ」
「現実には私もカノンも大罪人…だが、夢に逃げるつもりはないのだ」
「…」
目の前のカノンの表情がすとんと抜け落ちた。彼は表情のないままに口元だけで哂った。
「弟が生きていて、そのうえ改心していて、己も死んだ後に贖罪の一端を果たせた…それこそが都合の良い夢であるかもしれないのに?」
そう言うと、カノンだったものは形を無くして霧散していった。
本物ではないとはいえ、カノンの姿をしていたものが消えていくのはいい気持ちではない。
一人分消えた空間から、声だけが響く。
「夢を楽しむことも出来ぬ、無粋な男よ」
もはや幻惑の体裁をととのえるつもりもないのだろう。私は小さく溜息をついた。
「このような悪夢ばかりを、どう楽しめというのだ。…ヒュプノス」
眠りの神の名を呼ぶと、周りの景色も全て消えて、黒い虚無の中に私だけが座り込んでいた。
真っ暗な空間の中で、互いの声だけが響いた。
「どれもお前の願いなのだろう?殺した男に抱かれ、真っ直ぐな部下をとりこみ、弟をジェミニとする…叶えてやって異を唱えられるとは心外だがな」
「…」
「眠りも死も生も本人が見る夢に過ぎん。現実か否かに大きな差はない。どれを楽しむかはお前次第だ」
「そうかもしれん」
私は言う。
「だが、夢の中であれ、彼らを汚す事は許さない」
「そうか?」
眠りの神の言葉は淡々と紡がれていて、悪意によるものであるのか、気まぐれによるものであるのか、それよりももっと何かを伝えようとしているのかは判らなかった。
「これは、お前の夢ではなく、彼らの夢かもしれないぞ?」
ヒュプノスの声はそれきり消え、深淵には私一人が残された。
(−2007/12/28−)
[濃パラレル系]