蜘蛛の夢糸1
暗く濁った水をたたえた池のほとりで、ヒュプノスが何やら細く光る糸を指に絡め、水面へと垂らしている。散策がてら通りすがったタナトスは、それを見て呆れたように声を掛けた。
「釣りがそれほど楽しいか」
「ああ」
「食いつくかも判らぬ魚を、ただ待つだけなど暇なことだ」
「判らぬからこそ、面白いのだ」
ヒュプノスは笑う。タナトスはその糸の先を覗き込んだ。
糸は深く池の底へ沈み、どこまで続くのか肉眼では見えない。
「釣れたら、俺によこせ」
「釣れたならば」
そう言っている合間にも糸は反応し、ヒュプノスは楽しげに指を動かしている。
「お前は女神を選ぶのだな」
”私よりも”という声を押し殺し、サガは黄金の短剣を握り締めた。
まだ幼い赤子のアテナを胸に庇い、アイオロスは苦笑する。
「君が選ばせたんだろう。君が先に、俺より世界をとった」
それは淡々とした声であったが、どこかに責めるような色があった。
思わぬ返答に、サガの動きが鈍る。
アイオロスは声低く、呟くようにぽつりと零す。
「俺は…俺は君を選びたかったのに」
そのささやかな糾弾はサガの胸を抉った
「なあ、サガ。今からでも選びなおせないのか。君が俺を選んでくれるのなら、俺は」
口に出されたそれは懇願でありながら、強い力でサガに己を選べと命ずる。サガの面にわずかな動揺が見えた。
アイオロスは女神をそっと揺り篭へ戻し、片手をサガに向かって差し出す。
「世界とアテナを捨てて、二人で行かないか」
「アイオロス、それは」
こんなことはおかしい、サガの冷静な部分がそう叫ぶ。
でも、でも、アイオロスが。
アイオロスが自分を望んでいる。
どれだけ求めても得られなかった彼が。
何時の間にか短剣は指から零れ落ちていた。サガはのろのろと手を上げ、アイオロスの手をとった。
「上手く釣れたようだ」
糸をたくし上げながら、ヒュプノスが言う。
タナトスは獲物が引き上げられるのを見て、肩をすくめた。
「意外と簡単なのだな」
「これで微妙な加減が必要なのだ。お前では釣り上げられまいよ」
手繰り寄せられた糸の先には、柔らかな黄金の魂が、きらきらと光りながらまとわり付いていた。
2009/4/22
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