アクマイザー

モルペウスの芥子


夢界は眠りの神であるヒュプノスが管轄する世界だ。
そこは断絶された空間であり、女神といえど入り込むことは容易ではない。
…目覚めた状態のままであれば。

眠りに落ちた者は、当然のことながら夢の中へと入ることになる。
その中には強い意志をもって、夢神達の管理する最深部まで飛来する魂もあった。
大抵はヒュプノスの部下の仕掛けた罠によって排除されるのだが、今日は違った。
その魂は厳重な警戒網など意に介しもせず、風に漂う黒蝶のごとくふわりと夢の底へと降り立った。
降り立った途端、それは人の形となる。
真紅の虹彩に艶やかな黒髪を持つ彼は、人ならぬナイトメアのようだった。

『ヒュプノス、いるか』
彼は臆しもせず、畏れ敬うべき神の名を呼んだ。
この界を支配する神に対して傲慢な振る舞いをする者は、夢から叩き出されても文句は言えない。
だが、眠りの神は静かに呼び出しに答えた。
男の目の前の空間が開かれ、その空間の向こうに、来客用の小さな部屋が現れる。
空間に、柔らかな神の声が響いた。
「双子座の影とは…珍しい客がきたものだ。入れ」
影と呼ばれた存在は、不機嫌そうに眉を顰めながら、その部屋へと足を踏み入れた。

その部屋は、狭いながらも品の良い調度が揃えられていた。
奥の長椅子で書物に目を通していたヒュプノスが、その頁に栞を挟み顔を上げる。
「ここまで辿りつける人間はそうおらぬが、お前は夢の住人であるともいえる…夢界とは相性が良いのかもしれんな」
『御託は良い、此処へきたのはお前に用があるからだ』
黒サガと同じ顔をした男は、ヒュプノスへ近づくと睨むように見下ろした。
「ほう、サガの欠片にすぎんお前が、私に?」
ヒュプノスはゆるやかに笑み、その姿を見上げる。
「用とやらを、言ってみるがいい」
それは、十二宮での戦いのおり、女神の盾の光によってサガの身体から弾き出された存在の一部だった。クロノスの影響を色濃く受け、黒のサガともまた異なる悪意の魂。神のようなと讃えられた、サガのいびつな似姿。
その邪気と闇を纏わせた波動に、ヒュプノスがまったく影響されることがないのは、強大な小宇宙を内包する神ならではだ。もっともヒュプノスの方は、心の切れ端にすぎぬ存在を、自身の統括する界で抑えることなど簡単だと考えている。

悪意の存在は、ヒュプノスに告げた。
『お前の界に咲く、芥子の花が欲しい』
さまざまな感情を、咲いた花と色の数だけ奪うモルペウスの花。
それを植えつけられた者は、怒りを忘れ、愛を失い、無気力な抜け殻と化す。
『種まで寄越せとは言わぬ。切花の数本もあれば良い』
あくまで倣岸に言い放つ黒サガの面差しだったが、その凶眼には狂気と呼べるほどの渇望が浮かんでいる。
「誰に使う?アテナとの盟約のある今、地上の者へそれを使う手助けをするのは、憚られるが」
答えるヒュプノスの語調は咎めるようでいて、どこか面白がっている口ぶりだった。
ヒュプノスの目の前で、闇の欠片は答えた。
『地上の私に』
他者へ使用することは許されずとも、望む者へ願いどおりの品を与えるのは、盟約に反しない。
その言葉を聞いた眠りの神は、底意地の悪い笑みを浮かべながら立ち上がり、書物を置くと右手を一閃させた。手のひらを空に向けると、どこからかハラハラと芥子の花が降ってくる。
1つ、2つ…5つ、6つ、7つ。
指の間から零れんばかりにその芥子の花を掴み、ヒュプノスは命じた。
「跪け、サガを模ったツクリモノよ。神にモノを請う時には、それなりの礼を持つものだ」
サガの姿をした悪意は、ギラギラとその眼に憎しみを浮かばせつつも、己の欲望を叶える一時のみ、目の前の神に頭を垂れるつもりになったようだ。明らかに恭順の意のないそぶりで、ぞんざいに膝をつく。
その頭上へ、ヒュプノスは自らの手から花を降らせた。
芥子の花が1つずつ彼の中へ融けて消えていく。
そのたびに黒髪は色を薄め、最後には輝かんばかりの銀色へと変わっていった。
「離れているとはいえ、お前はサガと繋がっている」
優しくともとれる声で、眠りの神は問う。
「お前の消したい感情とは、何か」
サガの似姿は答えた。
『私に入り込む、鬱陶しい他者への想いだ』


その変化はひっそりと、だが確実にサガへと訪れた。
最初に気づいたのは同じ宮へ住まう双子の弟のカノンだった。
常であれば、口幅ったいほどカノンの不摂生や素行の悪さに口を出してくるはずの兄が、何も言わない。
最初はとうとう怒ったのか、諦めたのかとも思ったのだが、サガの不干渉はそれに留まらなかった。
宮で顔を合わせることがあっても、言葉を交わすこともない。ただ空気のようにすれ違う。
声をかければ返事はするものの、それだけだ。
以前であればカノンが海界から戻った時には用意されていた食事も
『無理に宮へ戻らずとも、遅くなる前にどこかで好きなものを食べてくると良い』
という一言で出されなくなった。
「言いたいことがあるのなら、こんな陰湿なやり方ではなく直接言え!」
とうとうキレたカノンが怒鳴るも、不思議そうな視線をむけるだけのサガに、カノンは打ちのめされた。
「もういい年なのだから、互いの生活を尊重するべきだと思うが?」
サガのそれは、無関心という言葉がまさにぴったりだった。

その無関心は、カノンだけではなく、近しかった周囲の人間にも向けられた。
アイオロスに対しても、シュラに対しても、サガは単なる同僚としての態度を崩さなくなり、その宮を訪れる事もなくなった。
何よりも顕著だったのは、女神に対してだった。
変わらず礼を尽くすものの、かつて刃を向けたほどの愛と情熱とが、サガの中から消えていた。
そして、それとともにサガは双子座の聖衣を纏えなくなっていた。
そうなると、元反逆者であるサガが聖域の十二宮に住まう必然性も無くなって来る。
「役に立たぬ私が、ここに居ても仕方が無いな」
今のサガは、聖闘士であることにも、それほど拘っていないように見える。
その言葉に激高したアイオロスが思わず殴りつけても、サガは何の感情も返さなかった。

ここに到り、ようやく皆は、サガの変貌がどこか尋常ではない事に気づいたのだった。


(−2007/3/28−)


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