アクマイザー

白い鳥と黒い猫


サガはゆっくりと目を開けた。真っ白な羽毛布団の柔らかな重みを押しのけて、寝台の上に身体を起こす。エリシオンは時の流れの外にあり、今が何時であるのか、それすらも良く判らない。
だがサガは気にしなかった。この後の予定があるわけでもないので、時間を気にする必要はないのだ。
気持ちの良い朝だった。窓をあけると外からは爽やかな風が入ってきた。
部屋の片隅でカサリと音がして、そちらを振り返る。そこには象嵌細工付きのチェストがあり、台の上には猫の入った銀の鳥籠が置かれている。目つきの悪い黒猫は鳥籠の中からサガをぎろりと睨んだ。
今の気配は猫が動いたことによるものだろう。
「おはよう」
サガは人間へ対するように猫へ話しかけた。
「お前はいつも機嫌の悪そうな顔をしている」
おかしそうに笑うと、猫はフンという風情でそっぽを向いた。
「狭い住処が不満なのか?だが、出してやるわけにはいかないのだ。お前が逃げぬよう世話をしろと、タナトス様に仰せつかっているのだから」
その猫を鳥籠ごとサガへ預けたのはタナトスだった。
タナトスは自分の愛玩猫にするつもりだと言っていたが、鳥篭の中の生き物はちっとも懐く様子がなかった。それどころか、姿が見えると必ず威嚇の声をあげる。決してその手から食べ物を受けようとしない猫のことを、サガは半分呆れたように見ていたものだ。
猫はニンフ達に対しても、威嚇こそしないものの触れる事を許さず、サガからのみ食物を受けた。
(少し前までは、私もあんな様子だったのだろうか)
サガは思い返して、またくすりと笑った。
(ここへ連れて来られた頃は警戒心ばかり先立ち、あの方を受け入れる余裕がなかった)
その気持ちも、今はほぐれている。
「今日は殊に気持ちが良い。籠を外へ出してやろう」
サガが話しかけても、やはり猫は不機嫌そうなままだった。


彼がエリシオンに来ることになったのは、タナトスとの契約のためだ。
サガは自害した魂であり、もともと契約など関係なく管轄権は死の神タナトスにあった。
だがサガは生死の理に逆らい、死した後も女神の聖闘士として嘆きの壁に飛んだ。それだけでなく、他の黄金聖闘士達と共に命を燃やして太陽の光を再現させた。
結果、嘆きの壁は破壊され、エリシオンにおいて青銅聖闘士と女神がそれぞれ双子神とハーデスを倒し、星矢は冥王の剣に貫かれることとなる。
肉体を既に失い、エイトセンシズで世界を捉える黄金聖闘士達には、界を違えながらもその情景が手に取るように見えていた。しかし、ポセイドンによってエリシオンへ運ばれた黄金聖衣に宿る主たちはともかく、冥界へ残された者に星矢を助ける手段はない。あったとしても、小宇宙の大爆発に巻き込まれ、かろうじて聖衣へ憑依することで他次元へ飛ばされずに踏みとどまっていた彼らには、何をする力も残っていなかった。
星矢の死という犠牲を最後に、世界は救われようとしていた。
サガの魂は叫んだ。彼にとって、星矢は女神と同じくらいかけがえのない希望の象徴だったので。
その時だった。かすかな声が彼へ届いたのは。

(あの子供を助けたいか?)
サガは周囲を確かめた。しかし周囲の黄金聖闘士たちの魂に反応する者はなく、聞こえているのは自分だけのようだ。サガはその声を聞き漏らさないよう耳を傾けた。
(冥府に俺の声が届く者が残っていたのは僥倖だった。聖闘士であるのは気に食わんがな。ヒュプノスの言うとおり、神の巫女であるパンドラを殺したのは軽率だったかもしれん。だがこの際、贅沢は言うまい)
その声はそんな事を言った。サガはすぐに、それがタナトスの思念であると気づいた。
本来の肉体を打ち倒されたタナトスは、声だけを冥府へ飛ばしてきた。
(エリシオンの崩壊が始まっている。このままでは全てが四散してしまう)
地上にある全ての命を摘み取ろうとしたくせに、界の消滅は惜しむ死の神へサガは怒りを湧かせた。
エリシオンなどよりも、サガにとっては星矢の命の方が大事だった。
タナトスはサガの想いを読み取って答える。
(人間は死のうが冥界に落ちるだけ。罪業深き者でもなければ、地上よりも楽土であったろうに)
『私に何の用だ』
会話を交わしたくなどなかったが、わざわざ声を飛ばしてくるからには何か目的があるに違いない。サガは端的にタナトスへ問いかけた。
(塵芥ほどの価値もない人間の力を借りるのは業腹だが、自身の肉体が役に立たぬいま、神威を充分に発揮するためには依代が必要だ。だが、それは誰でも良いというわけではない)
『冥闘士や冥府の巫女はどうした』
(神の声を聞き、預言を口にする資格を持つ者はそうおらん。パンドラはその域にあったが、あれもエイトセンシズにまで到っていない。俺の眷属であり、かつ死後も意識を留めたまま俺の声を聞くことが出来るのは、現在お前くらいだ)
つまり、タナトスは一時的な依代の役をサガへ求めたのだった。
『私も肉体を持たぬが?』
(肉体は俺が創ってやろう。神の身体を癒すよりも、土くれと変わらぬ人間ひとりの肉を物理的に捏ねるほうが、遥かに容易い)
残る力でまずサガに肉体を与え、その肉体を借りることによって神の力を発現させようということらしい。
『協力する義理は無い』
にべもなくはね付けたサガへ、タナトスは尊大に告げた。
(よく考えてモノを言うがいい。ペガサスを助ける事が出来るのは俺だけだ。ハーデス様の剣を受けて無事な者はおらぬが、死の神であるこの俺が鎌を振り下ろさなければ、命だけは助かるだろう)
それは、サガを逡巡させるには充分なものだった。
(お前の全てを寄越せとは言わぬ。聖闘士など俺には不要。それ以外のお前を寄越せ)
取引というよりもほぼ命令に近い選択肢を、サガは受ける以外なかった。


タナトスはサガに宿ると、崩壊してゆくエリシオンからさまざまなものを拾い上げた。
冥王とヒュプノス、そしてタナトス自身の肉体。ニンフや幻獣。神に選ばれて在住していた魂たち。女神が青銅聖闘士を球体で包んで護ろうとしたように、タナトスはエリシオンの住人たちを保護下に置いた。
崩壊したエリシオンの代わりに、次元の狭間のひとつを固定し、仮のエリシオンとする。
女神に倒されたハーデスは力を取り戻すための深い眠りに付いたままで、同様にヒュプノスもほとんど目を覚ます事はない。タナトスは静かな聖櫃を用意して、そこへ彼らを大切そうに寝かせた。
星矢には二流扱いされたタナトスだが、神としての力は流石に大したものだった。万全にはまだほど遠かったが、最低限の緊急措置だけはそのようにして終える。
最後に冥界で散らばっている冥闘士たちの魂をかき集めてから、タナトスはサガへ身体を返した。
(しばし休むゆえ、お前が我らの休息の守護をせよ)
神に命ぜられた人間がそれに背くことなどありえぬと思っているかのような、傲慢な言い様だった。
それに対して心の中で囁く声がする。
『いま、眠っている三神を討てば、この先の地上の脅威は失せるぞ』
しかし、サガは少し迷った後、結局命ぜられたとおりにした。
聖闘士の端くれとして、卑怯な真似で女神の勝利に泥を塗るわけにはいかなかったし、約束どおり星矢の命を奪わずに済ませたタナトスに対する僅かな礼のつもりでもあった。


「今日はここで食事にしようか。ニンフ達がバゲットでサンドイッチを作ってくれたのだよ」
サガは鳥籠の中の猫に話しかけた。料理はいつでも世話役の女官たちが用意してくれる。
宮の目の前は色とりどりの花が咲き乱れる自然の花園になっていて、枯れる事が無い。彼はそこへと鳥篭を運び出し、野外でのひとときを楽しんでいた。流れる風に花の香が混じり、息をするだけでも穏やかな気持ちになる。
(確か現世では、アロマヒーリングと呼ぶのだったか)
そんな取り留めの無い思いが浮かぶほど、この世界は平和だった。
猫にも食事を与えるため、鳥篭の扉の掛け金を外してそっと開く。
すると小さな鳥篭は消え、そこには一部屋ほどもある銀の牢獄が現われた。
中にいるのは首輪を付けられ、両手両足を鎖で繋がれたサガと同じ顔の黒髪の男。
その男は、紅く鋭い瞳でサガを睨み、舌打ちした。
「いつまで、あんな神に良いようにされているつもりだ」
対してサガは呆れたように大仰な溜息をついた。手にした彼の分のサンドイッチの皿を、床へ置く。
「まだそんな事を言っているのか。あの方の素晴らしさを、どうしてお前が理解しようとしないのか、私には判らない」
「やめろ」
黒髪の男は悪態をついた。
「お前をそこまで壊し、私を閉じ込めた男を許せるわけがあるか!」
敬愛するタナトスを悪しざまに言われたサガは、ムッとした顔になりながらも丁寧に諭す。
「私はどこも壊れていない。むしろ今までに無く頭がすっきりしている。私の中で勝手にお前やカノンの声が響くこともなくなった。私の中にあるのは、いまやタナトス様の言葉のみ…」
ガシャン、という音でサガの主張は中断された。黒髪の男が、手首の枷をものともせず、銀牢を内側から叩きつけた音だった。慌ててサガは傍へ駆け寄る。
「危ないだろう。そんなことをしては怪我をするぞ」
「構うものか。それよりもこの枷を外せ」
「それは出来ない。タナトス様は、お前をここから出すなと仰った」
憎々しげに睨む黒髪の男へ、サガの方はふっと零した。
「13年間に渡ってお前は私を閉じ込めていたが、今は逆だな」
過去を思い出しているのか、ふわりと微笑む表情は、どこまでも透明で翳りがない。
「そう、昔を思えば、私によってお前が閉じ込められるのは因果応報だと思わないか?」
当たり前のように断罪するサガへ、黒髪の男…もう一人のサガは、唇を噛みしめ顔を歪めた。


「お前は使いにくい」
何度かサガに降臨したのち、タナトスは不満そうに告げた。
「身体との相性は問題ない。俺が創りなおしたのだからな。問題はお前の精神だ」
「私の?」
サガは首を傾げる。
「その二重性。合一を果たそうと片方捕らえても、どちらか半分が必ず反発し、俺から逃れる」
「なれば、今後はその本来の肉体を使えば良かろう」
依代を得たタナトスの復元は他の神々よりも早く、肉体も使用して問題ない程度に回復している。
今、サガと話しているのもタナトス自身の肉体でだ。
サガにとって冥界の神への協力は本意ではない。文句を言うのであれば、早く自分をお役御免にすればよいのだとしか思わない。
「エリシオンではそれも良いが、地上へ出るのに真の肉体を使いたくないのでな」
だのに、タナトスはそんな事を言う。
それだけではなく、とんでもない解決策を口にした。
「ああ、お前の精神も作り直せばいいのか」
最初、サガはタナトスが何を言っているのか理解できなかった。

タナトスはサガを手招いた。
大人しく言う事を聞くいわれなどなかったが、タナトスに作られた肉体は、サガの意思よりも創造主の命を優先する。
己にままならぬ身体というだけならば、過去において黒サガとの相克で幾度も経験済みの感覚だが、異なるのは創造主の命令に対する肉体の歓喜だ。そのことへ微妙に混乱を覚えながらも無愛想に神の前へ立つと、サガより僅かに長身のタナトスは、獲物の顎を指先で捉えて見下ろした。
「ふむ、見目は悪くない」
美術品を鑑定するように検分し、呟く。
「だが、中身の素直さが足りないな」
「馬鹿馬鹿しい」
サガはタナトスの手を振り払った。タナトスは目を丸くしたものの、その反抗に怒ることなく唇の端を吊り上げて笑みを浮かべる。
払ったはずの指先がまた己に触れてきた時、サガは深い眩暈に襲われた。
立っていられないほどの飢餓、それもタナトスに対する希求が沸き起こる。肌は粟立ち、ただ触れただけの指先が更に這い回ることを肉体が望む。尋常の生理反応でないことは直ぐに知れた。
「何を、した」
口で吐き捨てるように嫌悪感を表しても、舌先すら震える。
「お前達ですら、他者の五感を断つ程度の力を持つ。神が人間の五感を自由にすることなど造作もないこと。まして、お前の身体は俺が創りあげたもの」
タナトスの侮蔑の声すら、柔らかな振動となり耳から体内へと染み込んでいく。
染み込んだのは声だけではなかった。タナトスの小宇宙がサガの身体全体を包み込み、浸透していく。タナトスはサガを感じさせるのに神経や脳を通すような手間はとらず、直接全細胞へと小宇宙を流し込んだ。高濃度の小宇宙に閉じ込められたサガは、溺れるように喘ぐしかできない。
「やめろ、何がしたいのだ」
意思の力を総動員してタナトスを突き放そうとしたサガを、タナトスは難なく引き寄せて胸に抱いた。そうされてしまうと、サガにはもう振りほどく事は出来なかった。
もっと強く抱きしめられたい、そう思ってしまう己に絶望に似た予感が走る。
(タナトスは、私を汚そうとしている)
ようやくサガは神の意図に気がついた。
表情の変わったサガを見て、タナトスもまた愉しげに答えた。
「神を降ろし交感をおこなう手段の一つに、共寝がある。お前はもっと俺を受け入れることを覚えるべきだ」
男に抱かれるなどということは、知識にはあったものの、自分がそれに関わる事などは全くの想定外で、タナトスの宣告にも嫌悪感しか覚えない。依代として肉体を提供することと、これとは全くの別物だ。
「…断る」
言葉と裏腹にタナトスの胸へ甘えるように顔を埋めながら、サガは抵抗する事を諦めなかった。
支配された五感を断ち、肉欲の誘惑を切り捨てようと試みる。
「なるほど、精神力だけは馬鹿にならぬようだ」
タナトスは感心しているようでいて、その語調には無力な子供を笑う残酷さがある。
「鳥を飼うには、飛べぬよう風切り羽を切ってしまえば良い。俺を拒絶するお前の心を切り取ろう」
そう言って片手を宙に翳すと、その手には銀の鳥篭が現われた。


「そうしてあの男は、私をお前から引き裂いて閉じ込めたのだ」
黒サガは忌々しげに言い放った。
白サガは顔色も変えずに反論する。
「だがそのお陰で、私はタナトス様を受け入れることが苦では無くなった。いや、最初は戸惑っていた私を、あの方はゆっくりと慈悲深く導いて下さった」
「は、慈悲深い!?お前に私を監視させているあの神が!?」
二人のサガの足元で、鎖がじゃらりと音を立てる。
「お前もあの方に抱かれてみればいいのに」
白サガは本気で勧めたのに、黒サガは怒りと拒絶を固めただけだった。
「神の依代など、引き受けるべきではなかった。神を受け入れた人間は、心か人生のどちらかを必ず壊される」
「星矢を助けてくださったあの方に、感謝しこそすれ怒るいわれはない」
即座に白サガは半身の言葉を否定する。
黒サガはしばし言葉を噤み、哀れむように白サガを見た。
「本当に鳥篭の中で飼われているのは、お前の方だ」
「馬鹿なことを」
白サガは会話を切り上げて牢獄の外へ出た。振り返って扉へ鍵をかければ、そこにはもうただの鳥篭と黒猫しかない。黒猫はフーと珍しくサガへと唸って毛を逆立てたが、サガはそれを無視した。
辺りには花が満ち溢れている。サガは腰を下ろし、自分の分に残しておいたサンドイッチを軽く摘む。
この世界では彼を悩ませるものは何も無い。
(生まれて初めて、私は幸せだと感じている)
神に縋る従属と平安を教えてくれたのも、タナトスだった。
サガは少しだけ、地上に女神と戻ったはずの弟と友人たちのことを思い出した。
「彼らに、私が幸せに暮らしていると伝えることが出来たら」
心配性の彼らのこと、一人異界へ残った自分を気にしているかもしれない。
「今度、タナトス様に頼んでみよう」
サガはまたおっとりと微笑むと、手にしたサンドイッチで遅い朝食を楽しみ始めた。

(−2008/10/8−)

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