珊瑚と薔薇2
※LC&エピG設定アリ
闘技場へ入ってきた二人をみて、その場にいた訓練生や雑兵たちは目を丸くした。
片や美の化身とも思える魚座のアフロディーテ、片や神のような男と称されたサガと同じ容姿を持つ双子座のカノンである。
埃と汗にまみれた闘技場は、彼らの登場で華やかに雰囲気を一変させた。
黄金聖闘士二人のために場を空けようとした一群に対して、アフロディーテが涼やかな声で制する。
「下がる事は無い。お前達に稽古をつけに来たのだから」
その一言で闘技場はどよめいた。
ここ十数年(つまりはサガの乱の間)、アイオリア以外の黄金聖闘士が下の者を見てくれる機会などほとんど無く、その恩恵にあずかれるのは運良く彼らに弟子として割り振られた者くらいであった。
聖戦後は交流の機会も増えたものの、この2名による申し出は初めてで、その組み合わせの珍しさにも注目が集まる。アフロディーテはそのまま優雅な仕草で片隅へと進み、闘技場の壁によりかかった。
一緒に来たカノンが口を開く。
「おい、稽古をつけるとか言っておいてオレ任せか」
「黄金聖闘士クラスが一度に二人で対応するのも大人気ないだろう。だから聖衣も置いてきたのだし」
ふわりと大輪の花のように返すアフロディーテの姿は芸術品のようでいて、隙が全く無い。
カノンは呆れながら息をつき、ぼそりと小声で続けた。
「一人でも大人気ないだろうよ…大体、稽古ではなく実験台だろ」
「人聞きの悪い」
天使の笑顔でアフロディーテが切り返す。
「被験体になってもらうため、みっちり稽古をつけてやるだけだ」
その瞳に本気が宿っているのを見て、カノンはもう何も言わず肩をすくめた。
二人が闘技場へ赴くきっかけとなったのは、カノンによるアフロディーテへの相談だ。
海龍の技のひとつに珊瑚を触手のごとく操るものがあり、同じ動植物を使う魚座へ制御のヒントを求めたのだ(もっともカノンの目的は攻撃力ではなく、珊瑚そのものだったのだが)。
その技の研究の途中で、海龍の力に治癒の能力をみてとったアフロディーテが「どうせなら癒しの力を伸ばしてみないか」と提案したのだった。
治癒の力を発揮する為には、怪我人が必要になる。
戦士に怪我はつきものであり、聖域において怪我人が途切れる事などないが、アフロディーテは手っ取り早く大量に怪我人を出す案を出した。
すなわち、黄金聖闘士による訓練という名の狼藉である。
(サガに知られたら、こっぴどく怒られそうだ…)
考えたとたんに寒気が走り、カノンは兄のことを考えないよう頭の隅へ追いやる。確かに上位者との対峙はそれだけで良い修練となるため、稽古と言うのも嘘ではない。しかし、これは雑兵への虐待行為スレスレの気がする。
アフロディーテの方はそんなカノンの内心など全く気にする様子もなく、さっさと始めろと視線で伝えてくる。
(こいつ、見た目と裏腹に鬼だ)
デスマスクたちのアフロディーテ評が正しかった事を今更ながらに納得しつつ、カノンは闘技場の中央に足を運んだ。
トントンと足慣らしで地面を叩き、一同をぐるりと見回す。この近距離でなら目視による位置確認などせずとも、全員の動きに対して瞬時に対応できる自信があった。ゆえに一通り相手を確認したのは戦闘のためでなく、叩きのめす雑兵たちの顔を見ておいてやろうという、カノンなりの礼儀によるものだ。
周囲にはまだ幼い訓練生から白銀聖闘士まで、レベル様々な闘士たちが50人は集まっている。
「面倒だ、全員でかかってこい」
しかしその宣言へ、白銀聖闘士の一人がおずおずと言葉を返した。
「しかし、聖闘士は1対1での戦いが決まりですので…」
カノンはパチリと目を瞬かせた。
「ああ、そういやそんなお約束もあったか」
かつては不良聖闘士として女神の掟など鼻にもかけず、現在は海将軍でもあるカノンにとって、聖域の決まりごとなどは記憶に薄いのだが、確かにそんな基本ルールがあった事を思い出して鼻の頭をかく。
すると、アフロディーテが横から口を挟んだ。
「安心しろ。光速で動く我らにしてみれば、順番に人数分タイマンをするようなもの。未熟なお前達のスピードでは囲むことすら出来ないだろう。多対一の状況を作り出せたら、むしろ褒めてやる」
どう考えても詭弁だ。
しかし、言い募った白銀聖闘士は安堵した顔で頷いた。元々、遥か格上の黄金聖闘士相手に1対1ルールの心配をする方が失礼ではないかという思いがあったのだろう。
カノンの視線にはますます呆れの色が深まる。無論アフロディーテの厚顔っぷりに対してだ。
「では、始めるがいい」
魚座の主による開始の言葉で、一斉に闘士たちがカノンへと飛び掛った。
そして勝負はほぼ一瞬だった。
累々と倒れ伏す闘士たちに比べ、カノンは汗一つかいていない。
腕を組んで見物していたアフロディーテが、初めて『ふうん』という顔をした。
「サガに似ず粗暴な者かと思っていたが、意外とマメなのだな」
アフロディーテが感心したのは、闘士を倒した速度についてではない。
当たり前の事だが、統制もとれていない白銀聖闘士クラス以下の人間が数十人いたところで、カノンの戦闘力の前では烏合の衆だ。これがもし敵であれば、致死に至る一撃必殺で全員を吹っ飛ばしているだろう。それこそ光速で。
しかしカノンは、向かってきた相手の実力と癖を即時に判断し、それによって対応を変えた。
脇の甘いものにはそこを突き、軸のぶれた浅い蹴りにはその軸足を払い、安易な拳を向けた者はその拳を掴んで投げ飛ばした。それによりお前の弱点はここだと教える。その上で、自らの目的である『適度な負傷』を相手に与えた。
それが、全員が倒れ伏すまでにほぼ一瞬の”遅れ”が産まれた原因だった。
カノンは律儀に、稽古という建前を通したのだ。
「稽古といったからには、それを違えるつもりは無い」
「少しだけ見直したよ」
「そいつはどうも」
カノンはどうでも良さそうに肩をすくめ、アフロディーテは中央へと歩み寄った。
怪我人たちの状態を把握する為だ。
「裂傷・打撲・捻挫・あばら骨へのヒビ…ふむ、怪我の程度が随分と軽い気がするが、最初はこのくらいから始めた方がいいだろう」
「軽いというがな、オレは大分良心が痛んでいるのだぞ」
「このくらい、通常の修行の範疇内だ」
「だが通常の修行で故意に怪我人を出すのは、兵士を養う場として最低の行為だろう。戦闘集団たるもの、兵士は出来るだけ万全な状態で保つものだ。いつ敵襲があるか判らんのだからな」
軽く睨むカノンの視線にも、アフロディーテは涼しい顔だ。
「判っている。だから今から治すのだろう?さあ、呼ぶといい。貴方の鱗衣を」
「言われずとも」
闘士たちは、黄金聖闘士が聖域で海将軍の鱗衣着用を承認するという、有史以来ありえぬ光景を見る事になる。たとえ聖戦後の平和協定があろうと、双子座の星を併せ持つカノンでなければ、これほど簡単に実現する内容ではない。
双児宮の方向からまばゆい光の塊が直ぐに飛んできたかと思うと、カノンの身体を覆った。
味方となれば頼もしいジェミニの姿も、そうして他界の鱗衣を身にまとうと畏怖が先に立つ。この場に鱗衣を呼んだ意図がわからず、倒れている闘士たちは無意識に身を硬くする。
その緊張をほぐしたのは、いつの間にか彼らの周りを漂う甘い薔薇の香りだった。それはいつもアフロディーテが攻撃用に使う、毒薔薇の脳髄を痺れさせるような強い甘さではなく、ほのかな安らぎをもたらした。
香りだけではない。闘技場はいつの間にか、茨の蔓で覆われていた。それは見る間に天にまで蔓を伸ばし、空を隠す円形のドームとなって闘士たちを閉じ込める。その内部でアフロディーテの小宇宙がさらに膨れ上がっていく。
「薔薇の結界による回復空間…本来であれば、この中で他者に私の小宇宙を分け与えるために使う。だがこの技はあくまで小宇宙の分配でしかなく、怪我の治療までは出来ない」
アフロディーテの声が朗と響いた。
「カノン、貴方の力を見せてくれたまえ。あの人の弟に相応しい救済の力を」
「うるさい。救済などオレのガラではない。それからオレをサガと比べるな」
カノンの小宇宙もまた高まっていった。海龍鱗衣の着用により海の守護が強まる。すなわち海の生命を育む力・ヒーリングの効力も強まる。カノンはその力をアフロディーテの結界内で開放した。
魚座であるアフロディーテもまた海王の星の守護を持っているため、相性は良い。
カノンの小宇宙は目に見える形をとり、それは珊瑚の触手となって具現化する。薔薇の蔓に絡むように広がるそれは、負傷者達の身体に巻きついていき、負傷箇所にその先端を伸ばす。そしてゆっくりと彼らの皮膚に同化した。
本来の使用法としては、ここで相手の神経器官を奪い、肉体操作することなどが挙げられる。他にも無機物に神経代わりの珊瑚網を張り巡らせ、生き物であるかのごとく使役することなどが可能だ。
カノンは大きく息をつき、それから僅かに眉をしかめた。治癒の為の珊瑚を通じたシンクロが、相手の痛みまで運んできたのだ。技にまだ慣れぬカノンでは、知覚を一方通行にすることまではまだ出来ない。思わぬ副作用である。50人分の痛みは、それぞれは軽症といえど甘いものではない。
けれども彼の唇には笑みが浮かぶ。
(ふん、スカーレッドニードルの痛みに比べれば羽で撫でられたようなものだ)
カノンは鱗衣の上から、かつての爪跡の痛みの記憶を指でなぞり、最後に海皇の鉾で貫かれた胸の疵の上へ手を当てた。
「シードラゴンの鱗衣よ、聖闘士を癒すのは気が進まぬかもしれないが、オレが手負わせた者達を治すのに力を貸せ」
言い終わるや否や、珊瑚の触手を伝ってカノンの身体から海の波動が負傷者へ流れていった。それは津波のように闘士たちの中へ流れ込み、内側で渦を巻いた。サガの行なうヒーリングが穏やかな泉の癒しであるならば、カノンのヒーリングは激しい荒波だ。一歩間違えば細胞破壊にもなりそうな、凄まじい回復力の強制強化。その荒波を上手くアフロディーテの小宇宙が凪いで和らげる。
暫しの後、皆を捕まえていた珊瑚が一気に砕けて崩れ落ちた。
カノンは疲れ切った顔で息を付き、ドサリと腰を下ろす。
「アフロディーテよ」
「なにか」
「使ってみて判ったが、この力は本来他人用ではなく、海龍本人用らしい」
「そうなのか」
「ああ、シードラゴンの鱗衣が盛大に文句を言っている。オレの小宇宙の消耗が多すぎると」
「ケチケチするなと伝えてくれないか。消耗が不満というのなら、カノン専用の小宇宙補充役をこれから呼んでやる」
話しながらもアフロディーテは皆の負傷箇所の確認を怠らない。
伸ばした蔓で各人の疵や打撲が完全に回復されているのを確認し、茨を通じて各自へ小宇宙を分け与えていく。余剰に溢れた小宇宙は蔓を流れながら、あちらこちらでポツポツと新たなる薔薇の花を咲かせた。
全員に小宇宙を分け終えてから、アフロディーテも茨を消した。
「他人を癒すのは、なかなか気持ちのよいものだろう?」
「よく判らんな。それより誰を呼ぶと?バテてはいるが補充など余計な世話だ。必要ない。補充するにしても、お前がいるではないか」
「私は海龍に小宇宙を分け与えるなどゴメンだし、補充役を呼ぶのは貴方のためではなく、鱗衣の機嫌を直すためなので」
勘違いをしないで頂こう…と美の化身がクールに嘯くも、カノンは嫌な予感がした。
「ちなみに誰を呼ぶつもりだ」
「呼ぶ『つもり』ではなく、もう呼んでいる。貴方の兄上だ」
「ちょっとまて、あいつは今、遠方へ出張しているはずだぞ」
「大丈夫だ。貴方が聖域内で鱗衣をまとい、大勢に狼藉を働いたと小宇宙通信送ったゆえ、直ぐに戻られるだろう」
にっこりと笑うアフロディーテだったが、カノンは真剣に青ざめた。
「何のためにそんな嘘を!オレを殺す気か!?しかもだ、サガがオレに聖闘士の小宇宙を分けたとして、それで海界に属する鱗衣が機嫌直すわけがないだろう!逆だろう!」
「失礼な。嘘などひとことも言っていないし、私とてサガに会いたい」
騒ぐ間にも、強大な力が空の向こうから近づいてくるのが感じられる。
(二度目の新技利用が、サガにボコられた後の自己回復になりませんように)
魚座の主を怒鳴りながら、カノンは本気で逃げ出す算段を考え始めた。
(2009/1/24)
[その後]