導かぬ牧童
「教皇が偽者と知りながら、放置していたというのは本当なのか、シャカ」
アイオリアがじっとシャカを見た。その真摯な眼差しに揺るがぬ者はいないように思えたが、シャカは動じる事も無くその視線を浴びた。
そのことがすでに是との返答なのだろうと判断し、アイオリアは唸る。
『それでも女神の聖闘士か』
聖戦以前であれば、そう詰ったろう。
だがハーデスとの戦いを経たいま、シャカの女神と地上に対する強い愛をアイオリアは目の当たりにしていた。地上への無関心がそうさせたのではないようにアイオリアには思えた。
それにシャカは単なる傍観者ではない。必要とあらば、デスクイーン島でしたように自ら手を下す。弱者へ向ける慈悲など自分には無いと断じながら。
(だが、それならば尚更、なぜサガの凶行を認めていたのだ)
それが理解できない。
兄を貶め、女神殺害を目論み、聖域を私物化した男の行為は、本質が善であるというだけで相殺されるようなものではないと思う。
シャカのしたことは、聖闘士として正しいとはとても言えないだろう。
(だが、聖闘士という枠を外したら?)
処女宮の主は、幼い頃から神仏との対話を可能としていたという。女神以外の神を知るシャカには、ギリシア聖域育ちで女神だけを奉ずる自分には見えないものも俯瞰できたのだろうか。
そう思いを巡らすくらいにはアイオリアも学んでいて、怒りのままに拳を向けることをせず、まず言葉をぶつけたのだった。
「お前には、全ての流れが見えていたのか?女神が戻ってくる事も、サガが敗れる事も判っていたのか」
「いや、私は神ではない」
静かにシャカが答えた。そう答えたシャカの小宇宙は言葉に反して神々しく澄み、どこまでも透明な泉を思わせた。その泉にアイオリアの投げ込んだ小石が波紋をつくる。
「ただ、あの頃の私には迷いが無かった」
本当に小さく、ふ…とシャカは息を零した。
「過去の行動について、私は後悔も詫びもせぬ。ただ、人とは迷うもの。私はそれを知っていたというのに、判ってはいなかった」
独白のようなその言葉を、アイオリアはきちんと理解出来たわけではない。ただ、アイオリアはどうしてかサガを思い出した。サガはシャカとは逆に、迷い続けたのかもしれない。
その迷う羊を牧童として連れ戻すでもなく、内なる善を信じて自ら道を正す未来を与えた。
それゆえの放置。
それがシャカという男の優しさの形なのだとアイオリアは今更ながら気づいた。
「私は君の苦しみも放置し続けた。君はそのことを怒る権利がある」
シャカもまた真っ直ぐにアイオリアを見て、そして瞳を開いた。
薄く青い瞳孔が、内面の小宇宙を湛えてほのかに光を持つ。
だが、その光に負けぬ輝きでアイオリアは笑った。彼は獅子の星を持つ男だった。
「見損なうな、シャカ。俺は過去に囚われるつもりはない。ただ知りたかっただけだ」
「そうか」
そう言うとシャカは暫く首をかしげていて、それからアイオリアに頭を下げた。
虚をつかれたアイオリアが目を丸くする。
「詫びぬのではなかったのか?俺への謝罪なら今更必要ない」
言い切る獅子へ、シャカはどう告げたものか言葉を選んでいるようだった。
「これは、今の君を見損なった発言への詫び…といえば良いのか」
珍しく歯切れが悪い。
「視覚を閉ざすと、目で物を捉えるよりも、多くのことが見える。だが自身の肉眼で世界を見るということも、時には必要なのかもしれん」
「意味がよくわからんのだが」
アイオリアは遠まわしな比喩や言い回しが苦手だった。
それゆえに聞き返したというのに、シャカは説明する気がないようだ。
「君が、思った以上に良い男に育っていることも気づかなかった」
「は?」
話のつながりが全く理解できなくて、褒められているような気はするのだが、何をどう褒められているのかも判らない。
だが、一瞬悩んだアイオリアは直ぐに笑い出した。
どれだけ英知に長け、神仏に近い男であろうと、シャカもまたアイオリアと変わらぬ年齢なのだ。唐突な言動も深慮からくるものばかりではなく、実はかなり不器用だからという一面もあるからではないか、そう思い当たる。
アイオリアはシャカと同様に頭を下げる。
「すまん、俺もシャカのことを決め付けていた」
今度はシャカが目を丸くした。
「サガのことも、決め付けぬようにする。シャカのように深い愛で見守る事は出来ないかもしれん。だが、神のようだとか、神に近いとか、そんな外郭だけではなくて、人の迷いが何から来るのか、知りたいと思う」
アイオリアの瞳はゆるぎなかった。
「迷う羊を見つけた獅子は、迷わず食い殺すかと思うていたよ」
アイオリアの心を読んだかのようにシャカは呟くと、再び瞳を閉ざした。
(2007/12/25)