アクマイザー

ミディアン(前編)
(キリリク御礼/仁科さまへ)


冥界はハーデスの力により界を保っている特殊世界だ。
そのため、アテナとの聖戦でハーデスが倒された時、主と共に一度完全に崩壊している。
現在の冥界は、再生したハーデスが不完全ながらも神力を注いで作り上げた、未だ卵とも言うべき小さな獄だ。今後ハーデスが力を取り戻すに従い、その世界も安定し拡大していくのだろうが、現在はエリシオンと人間用の死界を別途に創造する余力がない。
そのようなわけで、以前は嘆きの壁を隔てて別次元に存在したエリシオンも、再生した冥界の片隅に隣接されているのだった。
それはハーデスに従うタナトス・ヒュプノスの二神が、冥界軍に対して目の届く場所から復興の采配を振るうのにも都合が良かった。冥闘士は冥衣によって力を得る闘士だが、108の魔星すべての冥衣が修復出来ている訳ではない。中身である選ばれた人間たちは蘇生を果たしているものの、冥界で彼らを守る外殻は、力を持つ三巨頭を筆頭に順次修復されているという状態だった。
生きながら冥界へ降りて復興作業を行っているのは、冥衣を取り戻した少数の冥闘士たちであり、それ以外の冥闘士たちは地上での拠点…ハーデス城などの復興につとめていた。

白サガはそんな冥界の片隅で意識を取り戻した。
周囲はうっそうと立ち枯れた樹木の並ぶ、静かな谷底の森林。そこが以前は自殺者を罰する二の谷と呼ばれる場所であったと知るのは後になってからだ。
目覚めた彼は、まず自身から魂の半分が抜け落ちていることに気づいた。厳密には最奥の部分で繋がっているものの、よく切れるナイフで切りわけられ別の皿に乗せられたケーキのように、それぞれが遠くに独立している感覚がする。
黒髪を持つもう一人の自分は、悪心に染まり女神へ叛意をみせた己の暗黒面ではあるが、まぎれもなく自分自身であることに相違はない。心の中に突然生まれた空虚に白サガは驚いた。何度自身の精神内を探査しても、黒い自分の影響を感じない。かつて切り捨てたいと願い続けてきた半身であるのに、いざ分離されてみると寄る辺のない不安が先に立った。

(本来、人はこのような不安と孤独を抱えているのか?)
ある意味、生まれてこのかた一人になったことのない彼は、初めての孤独に自嘲を漏らした。

次に驚いたことには、分離した己の半身はどうやら聖域へ強制召還されているらしい。
真の聖闘士であれば、女神の小宇宙に魂が応えぬことなどありえない。蘇生の呼びかけに対しておそらく全ての聖闘士の魂が聖域へと引き寄せられたろう。双子座もその例に漏れない。
しかし自殺によって命を落とした自分は、その時には反応するだけの再生状態になかったため、自刃していない半身のみ引き剥がされたのだろうと白サガは推測した。
黒サガの不本意さが意識の根底を通して伝わってくる。それだけではなく、黒サガが聖域で得た情報が共有の記憶として白サガにも流れてくる。自らの殺めたシオンやアイオロスの蘇生を知り、サガは再生後初めて笑みを浮かべた。

「さて、私はどうしたものか…」

目の前に広がる荒廃した冥界。以前も荒涼とした世界ではあったが、それは獄としての機能のためだった。現在の状態は冥王の力が復活しきっていないために、それが彼の世界にも反映されているという事なのだろう。死後の世界というイメージがぴったりの寒々しい光景を、サガはじっとみつめた。

(世界が動く限り、今もこの世界へ死者の魂は落ちてくる。そして輪廻の流れに乗る時を待っている)

一転して地上へ意識を振り向ければ、いまだ蘇生へとサガをいざなう女神の小宇宙を感じる。暖かく慈愛に満ちた、この世界とは正反対の光と生の鮮やかな小宇宙。
この小宇宙を辿れば、自分も聖域の女神と半身の元へと還ることが出来る。
聖域の青い空を思い出して白サガは目を閉じた。あの空と聖域に吹く風を、彼は好きだった。

(…還りたい。あの世界へ。女神の元へ)

サガは佇んだ。閉ざした瞼の裏に、さまざまな想いが去来する。
死者の生への希求は凄まじいもので、これは体験してみなければ判らないことだ。生への誘惑に負けてハーデスの軍門に下る聖闘士がいても、無理からぬこととサガは思う。
しかし、今の自分は望みさえすれば光の世界へ帰ることが出来る。


暫しの思考の後、白サガはゆっくりと歩き始めた。女神の小宇宙に背を向けて冥界の最深部へ。
彼は敬愛する女神の小宇宙ではなく、冥府の神々の小宇宙を辿ってエリシオンを目指したのだった。

(2006/12/12)


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