チェスマスター
昼下がりの巨蟹宮にギリシアの強い陽射しが降りそそぐ。白亜の石壁がそれを明るく照り返し、十三年間ここを死面が覆い尽くしていたことなど嘘のようだ。太陽光の眩しさに反比例して濃い影の射す乾いた宮内では、この宮の主であるデスマスクと処女宮のシャカがチェス盤を挟んで向かい合って座っている。チェスに興じる二人の横には、胡坐をかいて勝負を覗き込むアイオロスがいた。
彼らは石畳に安い織物の絨毯を敷いただけの上で、既に半刻ほど遊戯に興じている。現状、意外なことに優勢なのはデスマスクの方だった。遊戯にも本人たちのスタンスが表れるようで、攻防自在でありながらも守りを主体とするシャカに対し、デスマスクは意図を悟らせぬようフェイントを多様に仕掛けた上での一点集中攻撃を得意とする。
渋面を作りながらもシャカが次の一手を置いた。
「ム…まさか君がこれほどの腕前とは」
「チェスは十三年間サガによく付き合わされたのさ。あいつの満足行くような対戦相手になるために、そりゃあ苦労したんだぜ」
「サガはこういうゲームは異様に強いよね」
「ふん、サガはともかくチェスが得意な蟹というのは全然イメージに合わんのだがね」
「人の宮にチェス盤持ち込んでおいて、相変わらず失礼な奴だな。つうかシャカ、お前どうやって目を閉ざしたまま駒を確認しているんだよ」
三人はのんびりとした会話を交わしつつ、午後のシェスタ時間を潰していた。聖戦が終わった今、世界各地で人間同士による紛争は続くものの、神や巨人などの人ならぬ存在による変事は激減している。黄金聖闘士レベルの力を必要とする急事はさらに少なく、聖闘士は比較的自由に自分の時間を持てるようになっていた。
とはいえ上位聖衣保持者は不測の聖戦…海神・ハーデス以外の神や、封印されし邪神が地上を狙った場合に備えて、鍛錬や弟子の育成をかかさない。この三人も青銅聖闘士の指導や弟子育成の合間をぬってここへ集まっているのだった。
真剣な表情で考え込んでいるシャカを尻目に、デスマスクはアイオロスへ視線を向ける。
「で、オレとシャカを呼び出したのはどーいうことだ?まさか本当にオレらのチェス対戦が目的じゃあねぇだろ。そろそろ用件を話して欲しいんだがな」
聖域の英雄と呼ばれた男は、指の間で兵士の駒をいじりつつ、にこやかな笑顔を見せる。
「短気なところは昔と変わってないな」
「アンタのそういうとぼけたところもな。で、用件てのは?大体想像がつくが」
片膝を立ててそこへ肘を乗せた状態の頬杖で、デスマスクはアイオロスの顔を見る。人馬宮の主はつまんでいた駒を床へと置くと、ポリポリと頭をかきながら話し出した。
「ええと…察しのとおり、サガのことなんだけど。なんとなくサガの小宇宙が冥界にあるような感じがするんだ。聖域に今いる方じゃないサガの」
つまりは、未だ聖域に復活を果たさない白いサガのことだ。アイオロスの言葉に、盤面へ顔を向けているシャカも『ふむ』と呟いて佇まいを直した。
「気づいていたのかね。流石にその脳に詰まっているのはこの男と違って蟹味噌ではないらしい」
「その蟹味噌にチェスで勝てねえくせに言ってくれる。悪気がねェのが判るだけに忠告してやるが、その高飛車っぷり直さねえといつか後ろから刺されるぞ」
「君こそ失礼な。私の背後を簡単にとれる相手がいるとでも言うのか」
「えーと、そこで千日戦争に入らないで欲しいな」
脱線しかけている二人を宥めて、アイオロスは話を元に戻す。
「私は霊視や冥界探索は得意ではなくて…それで、そっちの方面に強そうな二人に確認をして欲しかったんだ。しかし、どうやら君たちはサガのこと、とうに気づいていたんだな」
乙女座の聖闘士は鷹揚に頷き、蟹座は視線をなにげなく逸らす。八識を備えたシャカは生身のままで冥府を訪れることが可能だ。また、その技に積尸気冥界波をもつデスマスクは、自宮から次元操作を通じて死界を覗くことも出来る。死して個性を失った常人の固体識別は難しいが、意識のはっきりしている黄金聖闘士の強い小宇宙であれば、その存在の有無をトレースする程度は二人にとってそれほど難しいことではない。
無論、それは冥王であるハーデスの結界が邪魔しなければの話だが、幸い現在の冥界はハーデスの復調と冥府破壊時に散らばった魂魄の探索で手一杯で、細かいことに力をまわす余力など無い。三界の平和協定を頼みに、防御としての結界はおざなりとなっているのが現状だ。
「いつから気づいてたんだ」
アイオロスの笑顔のうちに獲物を狙う矢の鋭さがひっそりと浮かぶ。だが、シャカもデスマスクも動じなかった。
「黒い方のサガが復帰してわりとすぐ…ってところか?」
「どうして直ぐに教えてくれなかったのかな」
「知る必要があったのかね」
シャカは長いストレートの金髪を肩に払い、冷たくもとれる声色で応える。デスマスクも肩をすくめた。
「確かに気づいちゃいたんだがよ。だがなあ…サガなら戻ろうと思えば、自分でさっさとここに来るだろ」
「お前たち、同じ黄金聖闘士の仲間に対して、冷たくは無いか?」
二人の反応に、アイオロスは思わず怒りを篭めて声を荒げていた。だが、シャカは瞼を閉ざした透明な表情で見つめ返すだけだ。デスマスクは逆に英雄に問いかけた。
「アンタは、俺らがサガの居場所を教えたらどうしていた?」
「決まってる、直ぐにサガを探しに冥界へ行った」
「本人が生き返るのを望んでいないかもしれないとか、考えねえの?」
「そんな事はあとで考える」
やれやれと言った様子でデスマスクは苦笑する。
「サガのために、サガの意思は確認なしか?そういうところ、嫌いじゃないんだがな。アンタは”ニケ”の男だし」
「どういう意味だ」
「勝利と正義の二者択一を迫られたら、迷わず勝利を選ぶような奴ってことさ。十三年前、女神の為にアンタは正義の盾でなく勝利を司る黄金のニケを持っていった。勝利さえあれば、正義はあとからついてくる…そう計算したんだろ。力こそ正義、なせばなるっぽい押しの強いとこ、気に入ってるぜ」
「そういうわけでは…盾は聖域とサガに必要だと思ったからね」
蟹座の指摘を英雄は曖昧に流す。デスマスクも深くは追求しなかった。
「まあ、残していってくれた正義の盾のお陰で、シャカもサガを正義と見間違えたしな」
「何を言うか。このシャカ、アテナの神具とはいえそのような物には惑わされん。サガは本質的に正義の男だ」
「お前の正義の定義も結構怪しいって」
デスマスクはシャカに突っ込みをいれつつ、アイオロスに再び問いかけた。
「あの時は聖域にサガが残されたわけだが、今回も聖域に黒い半分は残ってる。そっち放置して冥界に行くつもりだったのか」
デスマスクの追求に、一瞬アイオロスは言葉に詰まる。横からシャカも口を挟んだ。
「あの黒いサガも彼であるという…だから我々はまず冥界へサガを探しに行く前に、黒い人格であるほうの彼を今の女神の聖域に馴染ませようと思ったのだよ」
「ぶっちゃけ、アンタやアイオリアやミロ達にも黒いサガを認めてもらわないとなあ。白いサガを連れ戻す前にそこから何とかしねえと、ずっとサガの半分は聖域の異分子のままになっちまう」
思っても見ない二人の言葉に、アイオロスは驚いた顔をみせる。そのような事は考えもしなかった。
「それに冥界のサガの方だって、少しくらい頭を冷やして落ち着く時間が欲しいだろ」
デスマスクの言葉に、またアイオロスはポリ…と頭をかいた。
「君たちの言うとおりだ。私は短慮だな」
素直に話を聞くアイオロスに、二人の表情も少しだけ和らいだ。
「短慮とは思わねーけどな。俺はサガについちゃ死ぬほど考える時間があっただけだし?つうか、アンタ14歳にしちゃむしろ出来すぎて可愛げないっての」
「13年前と違って、こうして我らに話してくれるだけでも嬉しいことだ」
「あ、そうそうそれ!年少組の連中なんて、人馬宮の壁に字を彫ってる時間があったら、何で小宇宙飛ばすなりして声をかけてくれなかったのかって、随分むくれてたぜ」
かわるがわる話す二人を見てアイオロスは苦笑した。年下だった彼らが、いつの間にか自分を慮ってくれるようにまで成長している。13年間の年月を実感する。聖闘士はランクが上であるほど最盛時の肉体への成長が早く、その状態になると今度は老化が遅くなるため、実年齢はともかく見た目は三人とも大差が無い。それでもアイオロスは、自分も早く彼らに追いつきたいと願った。
「では、まず黒髪のサガと話をしてみる。冥界のサガを呼び戻すには彼の協力も必要そうだし」
善は急げとばかりに立ち上がったアイオロスへ、デスマスクはひらりと片手を振りシャカは黙礼を送る。隣の双児宮へ走っていった英雄を見送って、二人は再び盤面を睨んだ。
「まあ、オレらに相談なんて今のうちだけだけどな〜」
「教皇になった暁には、全てを一人で決めねばならない。相談などすることなく、全てを汲み取らねばならん」
「心配はしてねえけどな。アイオロスは昔から”最善の一手”は得意だし」
「チェス名人カパブランカの言葉かね…『何手先まで読めたのか?』という問いへの『一手先まで。ただし、その一手はいつも必ず正しい』という」
「そういうこった。だが、サガの方にあまり時間が無いようなんだよな」
カノンや女神のサポートもあり、黒いサガもそれなりに聖域に馴染み始めていたが、魂の欠けたサガの状態が万全でないことを、サガに親しかった反逆面子などは薄々気づき始めていた。心配するデスマスクへ、シャカはにこりと笑うとビショップの駒をすすめる。
「あの男が魂魄分離くらいで簡単にまいるようなタマかね。英雄殿が関わってくるとなると、黒いサガの方も反発するだろうが、どうなるか次期教皇のお手並み拝見といこうか」
「シャカ…お前、実は面白がってるだろ。で、この手は何手先まで読んだんだ?」
シャカの定跡どおりにみせかけた駒運びに、デスマスクはにやにやしながらクイーンを動かした。
(2006/11/14)