底なし沼
1…カーサとサガ
弟が海龍の職務を正式に続けるようになって以降、サガが海底へ下りる機会も増えた。
無論ゴールドセイントとしてではなく、海龍であるカノンの兄としてだ。
通常であれば、女神の聖闘士が自由に海界と地上を行き来することなど、海王が許さない。しかし、ポセイドンは自分の支配民や海闘士たちには大らかな愛情を持っていたため、彼らが大切とする身内や関係者には彼らと同様に水の庇護を与えていた。カミュやサガはその恩恵にあずかった数少ない聖闘士だ。
サガはただ海界へ降りるだけではなく、海闘士に混じって雑事を手伝う事も多かった。
人手の圧倒的に足りていない海界では、有能なサガはどこへ行っても歓迎された。
今世の女神とポセイドンの聖戦の原因(そして海底神殿の崩壊の原因)となったカノンの野望については、海将軍以外に知らされていないため、海の民は手荒くも素朴な好意でサガを迎えていたし、サガもまた、聖域では決して見せる事のなくなった、かつてのような自然な笑顔を彼らへは向けた。
誰に頼まれなくとも、神殿や住居に崩落の酷い箇所を見つけると、サガは勝手に修繕をしてまわった。
カノンの贖罪の一端を担いたいという理由もあるだろうし、単に客分として暇をあかすことが許せない性質なこともあるだろうが、基本的にサガは善意の性格なので、人が困るであろう事に対して放置したままにおくということが出来ないのだった。
最初は聖闘士が何故そこまでするのかと疑う者も居たが、サガの人となりを知り、彼とってはそれが当たり前の行為なのだと判ると、その疑惑は徳性への密かなる感嘆に変わった。
海将軍とサガが会話を交わす機会も多くなった。
正義と理想郷を夢見て、そしてどこかで道を間違えた者同士という部分で、彼らは似ていた。
まだ若い者も多い海将軍にとって、女神の陣営という敵サイドで偽教皇をしていたサガの話は、学ぶところも多かった。
サガは過去の自分の野心を隠すことはしなかった。自身の過ちをさらけ出す事で、同じ轍を踏まぬよう若輩への教訓としたのだろう。それらの話には表面に現れぬ含意も多く、受け止める側の理解度には個人差があったものの、成長期の海将軍たちは砂が水を吸収するように思想の奥ゆきを深めていった。
そんな中、珍しくカーサとサガが二人だけになることがあった。
カーサは以前から二重人格の心の奥底はどうなっているのかと興味をもっていて、折あらば心を覗こうとしていたのだが、サガのガードは堅く、表層を見ることすら難しい。
能力に絶対の自信を持っていたカーサが、射程距離にいるサガに対して今度こそはと仕掛けたものの、やはり強固な思念波に遮られてしまい、その挑戦は徒労に終わった。
「そんなに見られたくないんですかい?ちったあ覗かせてくださいよ」
つい愚痴るリュムナデスに、サガは笑った。
「それなら、どうぞ」
カノンを除いては最年長の海将軍が目を丸くする。
「いいんですかい?」
「ああ」
「あんなに防壁張っていたくせに、どんな心境の変化スか」
カーサが不思議に思って問い返すと、
「無理やり覗こうとするのならば防ぐが、今さら私の内面など隠すようなものも無いのでな」
と答えが返った。真正面から頼む分には問題ないという理屈のようだ。
あの鉄壁の防御が、心を覗かれる恐怖からではなく、単に負けず嫌いから発するものと気づいてカーサは脱力した。
言葉に甘えてカーサがサガの表層をそろりと探ってみたところ、罪人としての自覚のあるジェミニの聖闘士は、誇り高くありつつも、自分の内面に対してほとんど価値を見出していなかった。それはかつて、思い上がりから前教皇と友を死に至らしめたことへの嫌悪や後悔から生まれた、自己評価の揺り返しだろうとカーサは分析した。
もっと深く見せろとカーサが言うと、サガは好きにすればいいとまた笑った。
「私は自分が何者であるのか、本当は何を望んでいるのか知りたい。だから、君が私の中身を暴いて、私にとって最も大切なものが何であるのか教えてくれると助かるよ」
「自分の1番大切なものが何か判らないとは、アンタは意外と無知なんすか?」
「恥ずかしながら」
カーサは揶揄ったものの、ほとんどの人間が自分の最も大切なものなど判っていないことを知っていた。ただ、サガがそうであると自称するのは、本音なのか巧妙な嘘なのか、まだ掴む事が出来なかった。
サガはカーサに目を向けた。湖のように済んだ瞳を、カーサは何故か怖いと感じた。
「リュムナデス、君に大切な相手はいないのか」
不意を衝かれて、カーサは言葉を失う。今まで、そのようなことを聞いてくる人間はいなかった。
しかしサガは返事を求めたわけではないようで、そのあと苦笑いをこぼしている。
「君に覗いてもらって、一番奥底にあるのが自分の姿であったら、少し恥ずかしいな」
カーサはそれを冗談だと思い、軽く流して更にサガの心の深淵を覗き込んだ。
先ほど見えたサガの友と前教皇は、サガの心の表層から中層にかけて、非常に大きな位置を占めていた。サガは彼らを尊敬し、また同胞として愛してもいた。それは過去にサガが彼らを殺した頃から変わっていないようだ。
サガは内面を詮索されていることなど、意に介しもせず呟いた。
「その能力を制御できる君は凄いと思う。私であれば、きっと大切な相手の心でも覗こうとしてしまう。そしてもしも、誰よりも愛する相手の心の奥底にある一番の存在が、自分ではなかったら」
そういってサガは言葉を切った。
なかったらどうなんだとカーサは聞きたかったが、その続きがサガの口から発せられる事は無かった。
リュムナデスにはそれほど大切だと思える人間がいなかったので、サガが自分の何を褒めたのかよく理解できなかったけれども、代わりに先ほどサガに感じた恐れが何であるか理解した。
カーサの常識では、人間は愛する者に手をかけることが出来ないはずだった。だからこそ、リュムナデスの能力は無敵だと自負しているのだ。
しかし、過去のサガは躊躇しながらも、大切であるはずの彼らを手にかけていた。
カーサはさらに奥底まで潜った。女神や聖域の仲間たち、双子の弟、黒髪のサガ自身、いろいろな姿が浮かんでは消えていく。しかし、どれだけ愛する相手であっても、サガは例外なくその相手に刃を向ける。
そして辿りついた深淵の底には誰もおらず、ただ光があった。闇があった。その先には混沌があった。
混沌の奥を覗くことはカーサにも出来なかった。
カーサは戦慄した。サガに対して能力を使う事は、リスクが大きすぎる。
例えば、敵として互いに対峙したとして、その時にサガの友であるアイオロスとやらに姿を変えてみたとしよう。サガは、たとえ偽者とわかっていても、その姿に拳を向けることはないだろう。100%ないはずだ。つまり、反撃はありえない。
なのに、カーサは己が殺されるであろうと予見した。
その矛盾こそ、クロノスをして混沌と呼ばわしめたサガの一面だ。内面に広がる矛盾の坩堝を、サガはその強い意志の力によって、穏やかに封じ込めているのだ。そして、あくまで女神の聖闘士として光に向かおうとする。そういう意味では、確かにサガの本質は善だった。しかし。
「私の中には、誰が居ただろうか?」
柔らかい笑みで尋ねるサガから、カーサはすいませんとだけ謝って逃げた。
(2007/10/16)
[NEXT]