アクマイザー




可愛がっているニンフ達が、怯えながら彼に訴えてきた。
神の庭…エリシオンで、血まみれの男が幽鬼のように、時折現れては不意に消えていくのだという。
場所はとくに決まっておらず、泉のそばであったり、花園のはずれであったり、規則性は無いようだ
一瞬、サガの事かとも思ったが、あの男は茨の形で具現化された因果の鎖で繋いであり、自由に歩くことなど出来はしない。また、彼の魂は凍っていて、たとえ貫かれようとも血を流すことは無い。
しかし、この冥界で幽霊などは、それこそありえよう筈もない。
万が一にも裁きの界から紛れ込んだ咎人であると大問題だった。
なによりハーデス様は、この美しい箱庭に不浄な要素を持ち込まれる事を嫌った。
主君の目覚めが近い今、わずかな不審も放置するわけにはいかない。
タナトスはニンフを宥めると、その男が現れるというエリアに足を運んだ。


エリシオンの中でも、最も濃く花園を存在させている形成空間に来ると、タナトスは花園全体へと小宇宙の触手を伸ばした。冥界において、距離や空間はあまり意味を成すものではなかったが、そこは箱庭の中心部とも言える場所だった。
幾千もの花が咲き乱れるなか、タナトスは確かに血の存在を嗅ぎ付け、その位置を探知すべく、思念の精度を上げる。
清らかなる聖地において、対象さえ掴めれば、唯一のケガレを追うのは簡単だった。
ある一点に意識をむけると、その照準へ狙いを定めてタナトスは跳んだ。

探索によって探し出されたそこは白百合の谷だった。
むせ返るような強いユリの香で、嗅覚を頼れば血の匂いなど判らないであろうと思われる。
だが、タナトスは迷わずに捕捉した位置に歩いていく。
冥府の罪人などであれば、即座に魂ごと消滅させてやろうと、目指すポイントに近づくと、
そこには、素足から流れる血を気にもせず、低く呟くように歌を口ずさむ黒髪の男がいた。
ニンフも恥じ入るような、甘すぎないテノールの声。
何者をも拒絶するかのような、流れる血と同じ紅の、冷たくも美しい眼差し。

目を疑った。それはサガと同じ顔をしていた。

その男はこちらの存在など、意にも介さぬように百合を踏みしだいて歩み、音を生んでいく。
永劫たる一秒、神たる自分がその存在に気圧されたことに怒りを覚え、タナトスは声を荒げた。
「このエリシオンを血で穢す輩…何者か答えよ」
ようやく「それ」がこちらを向いた。目元に笑みさえ浮かべて。
「No name」
「答えよ。誰の許しを得てここに居る」
「わたしの行動に、誰の許しも受けぬ」
完全に馬鹿にした口調で、相手はさらりとうそぶく。
タナトスはあっけに取られた。神に対してここまで傲慢な人間がかつていただろうか。
黒髪の美丈夫は、蔑みを籠めた目で死の神を嘲笑う。
「わたしはお前を望んだことなど1度もない。産まれた事もないゆえ、死す事もない。よって、お前が私を縛ることは決して出来ない」
ようやく気づいた。
アテナ側の調査資料で目にしたことがある。サガという男は、二つの精神を持っていたと。
「貴様…戒めを強引に引き抜いたのだな」
約定と因果による楔がなければ、身体を貫く茨もただの物理的な枷でしかない。
この男は、魂が血を流すことなど厭わず、易々とあの人柱を抜け出したのだ。
今も、痛みを感じていないわけはあるまいに、平気な顔をして足を血で染めている。
「『わたし』が、このような退屈な場所で、死などに縛られるいわれは無いのでな」
不遜な物言いはいっそ爽快ですらあった。
おそらくサガというこの聖闘士は、精神を分かつことで、いかなる支配にも完全には従わないよう創られた戦士なのだろう。
つねに半身のみを表面とし、魂の半分を温存して強固たる精神力を守ろうとするバックアップシステム。どちらか片方が是とすることも、もう片方が反駁することによって働くダブルチェック機能。
この男は恐ろしいことに、従うべき女神と聖域の支配にすら、その反逆精神を向けた。
戒めを過信して、放置しておいたのは過ちであったか。
タナトスはそう判断し、目の前の男に眼を向ける。
この男の誇り高い倣岸さは嫌いではなかったが、神の前で、ヒトの脆弱な精神の独立など無意味なことは教えておくべきだろう。
徐々に小宇宙を高め、サガの内面へと呼びかける。黒髪の男がはじめて眉を顰めた。

『サガ。このタナトスに応えよ』

言葉ではなく小宇宙の波動でサガを包む。
目の前のサガが舌打ちした。
赤く染まった足元から血が消えてゆき、背に届く黒髪が先端から上へと銀に染まっていく。
苛烈なまでの憎悪の篭った視線を最後に紅玉の瞳は伏せられ、再び目を開いた時には、澄んだ氷の青がこちらを見つめ返していた。

「…わたしを呼ばれただろうか、タナトス」

そう、たとえ半身であれ、このサガは俺のもの。俺の命に従う。
手招きして近寄らせると、身に刻んだ戒めを作り直した。
茨を大地への拘束としてではなく、両手首と足首、そして首へと巻きつける。
不思議そうにそれを受け入れているサガへ、新しい命令を下す。
「事情が変わった。今後しばらく、お前は俺の傍に置くことにする。俺の側を離れぬよう」
「御意に」
彼は理由を問うこともない。それだけ俺の言葉が絶対であるということ。
神の支配とはこういうことだ。
鳥籠になど押し込めずとも、呼べば自ら鳥は舞い下りてくる。

処置を終えたタナトスが手を頬へあててやると、銀の鳥は嬉しそうに微笑んだ。

(2006/9/14)

[冥府でのサガ]


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