Are you insane? | ナノ





隙間から指を潜り込ませて、俺は彼女の内側を撫でる。常人のそれとは明らかに違う感触の異物に触れられて、彼女は痛がるだろうかと不安もあったけれど、幸いにもそんなことはなかったようだ。彼女は薄く開いた瞳を蕩然と虚空に向けたまま、しかし苦悶に表情を歪めたりはしなかった。

粘膜に包まれた肉を軽く押してみる。柔らかい。得もいわれぬその弾力に喉が鳴った。こんな体になっても、そういう生理的な生体反応は残っているようだ。

もう少し奥まで進んでみたい衝動が抑えられなくなって、俺はさらに深いところへ指先を沈ませた。恥じらうように閉じようとする入口をそっと抉じ開けて、薄い赤色に潤んだ壁を愛でながら、彼女の隠された場所をゆっくりと暴いていく。

簡単に折れてしまいそうなほど細い彼女の腹のなかがこんなにも熱く、心地よく、俺の指を受け入れてくれている事実に眩暈がした。脳の髄まで甘く痺れるようだった。

「…………トバリ」

せりあがる熱情に流されて、劣情に焦がされて、彼女の名前を呼んだ。返事はなかったけれど、それでも構わない。俺は彼女の陶器のように白くなめらかな首筋に噛みついた。

口の中に鉄の味が広がった。歯が肌の下を通る血管まで達して、破ってしまったようだ。どうやら力加減を間違えてしまったらしい。唇を離すと、堰が決壊して行き場を失った血液が溢れ出して、白いシーツがみるみる赤く染まっていった。

それすらも──美しい、と、俺は思った。

彼女の内側から指を引き抜いた。こちらも夢中になりすぎたようで、臍から上の十数センチほどだった穴が胸部まで広がってしまっていた。様々の臓腑が複雑に入り組んでいて、精密機械めいたそれらを覆う肋骨の白さが鮮烈だった。ひとつひとつは小さく、とても人間の生命を維持できる器官とは思えないほど弱々しいのに、この塊が彼女を形作っている。生かしている。

そう──生かしているのだ。

鎖骨の下、ゆるやかに膨らんだ部位の裏側で、彼女の心臓は動いている。からだを裂かれ、その内側を弄くられ、致死量をはるかに超える血液を体外へ放出してもなお、生きている。
心臓が規則正しく、力強く、脈打っている。

彼女とはそれなりに長い付き合いであったけれど、親しい間柄であったけれど──“こういう体質”であるとは、つい最近まで知らなかった。壊滅させた非合法組織で、愛玩動物として飼われていた女性だった。出自は一切わからなかったけれど、耳を塞ぎたくなるほど悲惨な生い立ちであるのは容易に窺えたので、わざわざ聞こうとは思わなかった。身の振り方が決まるまで、身寄りのない天涯孤独の彼女の面倒は俺が見ることにした。生きていくのに最低限の知識や常識が彼女には欠けていた。箸の正しい持ち方も、テレビの電源の入れ方も、牛乳パックの開け方も彼女は知らなかった。たどたどしく鋏を動かしてパックの開封を試みていた彼女の姿を目の当たりにして、俺の胸はひどく痛んだ。回路のどこにも異常はないのに、きりきりと締め上げられるような感覚がした。

組織の残党が彼女を奪還するために襲撃してきたのは二週間ほど前のことだ。なんとか全員を撃退することはできたが、匿っていた彼女はスプラッタ映画を彷彿とさせる凄絶な遣り口でずたずたにされていた。俺は呆然と、ふらふらと、まるで幽鬼のような面持ちだっただろう──潰れて千切られて広がった、かつて彼女だった肉片の隙間を縫って、ペンキの缶を引っ繰り返したみたいに真っ赤に床を踏みしめて、濁った瞳を半開きの瞼から覗かせている彼女に歩み寄った。

衝撃に麻痺していた俺の思考は、さらなる衝撃によって完全に停止した。

彼女は生きていた。心臓が止まっていなかった。蕾が開花してゆく映像を早送りせずに観察しているような、気の遠くなる速度ではあったけれど、彼女の肉体は確実に再生しつつあった。筋肉が蠕動し、血管は伸びて繋がり、皮膚がそこへ被さっていく。ゆっくりと、注視していなければ気づくこともできないであろうスピードで、しかし着実に──復元しようとしていた。
復活しようとしていた。

組織の連中が、危険を冒してまで彼女を取り戻そうとした理由がわかった気がした。

彼女の再生は近いうちに完了するだろう。必死に、懸命に、まっすぐ天を目指す大樹のような生命力で、彼女は元通りになるだろう。そのとき──彼女はどんな表情を浮かべるのか。

人間はいつか死ぬ。犬だって猫だって螻蛄だって水黽だって、神様だっていつか死ぬのだ。俺の家族や友人も例外ではなかった。それが自然の摂理であり、宇宙の規則である。その絶対的な束縛から外れたところに存在し、悪しき者どもに面白がられ、玩具のように扱われ、動物のように侮られ、望まぬ生き方を強いられてきた彼女。
それでも壊れることのできない彼女。
不死。
これまでに、そういう対象と出くわしたことが皆無というわけではなかったが──彼女には、ほかの有象無象とは一線を画すなにかがあるように俺には思えた。

首から湧き出ていた血は、もう既に勢いを緩めている。俺が指で拡張してしまった傷口も、まるで亀の這うがごとくの遅速で、じわりじわりと閉じつつある。その光景は眩暈がするほど神聖で、神秘的で、神々しく──死という別離に、残酷な現実に打ちひしがれていた俺に希望を与えてくれた。

彼女は死なない。
ずっと死なない。
未来永劫。
ずっと。
彼女は。
生きていてくれる。

それだけで、満たされてしまう。
充分すぎるほどに。

「……してる」

失う恐怖に怯えずとも、愛することが許される幸福。
運命のひとだと──思ったのだ。

愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる…………

囁きかける言葉に、当然、反応はない。
ああ、早く。
早く──目を覚ましてくれないか。
そしてまた、一緒に暮らそう。

ずっと求めていた安穏を、探していた安息を閉じた瞼の裏に映した。柔らかな日差しに祝福されて、彼女にいろいろなことを教えながら、彼女にいろいろなことを教わりながら、手を取り合って生きていく。それ以外にはもうなにも要らない。彼女がいればそれでいい。

病めるときも健やかなるときも、寄り添っていよう。
永遠に訪れない死が、ふたりを別つまで。