Are you insane? | ナノ





草木も睡眠に没頭する丑三つ時。トバリが自身の棲家であるワンルーム・マンションに帰宅すると、彼は当然のように胡坐をかいて煙草をふかしていた。

「おかえり」

彼は屈託のない笑顔を浮かべて、短くなった煙草の先を灰皿に押しつけた。

「……鍵かけといたはずなんだけど」
「あー、そういえば前に来たときと鍵が変わってたな。お陰で合鍵が入らなくて困った」

こともなげにそう言って、彼はダッフル・コートのポケットからくしゃくしゃに曲がった針金を取り出してテーブルに置いた。これで抉じ開けた──ということなのだろう。彼は悪びれる素振りもなく新しい一本に火を点け、悠々と一服を決め込んでいる。

トバリはその遠慮も躊躇もない狼藉に盛大な溜息をついて額を押さえた。そのまま彼のことを見ようともせず正面を横切って、部屋の隅のポールラックにショルダータイプのビジネスバッグを預ける。中身の詰まったバッグの重みでラックが揺れて音を立てた。
ゾンビマンが腰を上げて、トバリの側へ歩み寄った。煙草を血色の悪い唇に挟んだままの状態で、彼女へ馴れ馴れしいほど陽気に言葉を投げかける。

「どうだ? “収穫”はあったか?」
「ぼちぼちですね」

おざなりに答えてジャケットを脱ごうとしたトバリの細い右腕を、彼──ゾンビマンは強引に掴んだ。にやにやと薄ら笑いを顔に貼りつけたまま、指先が白くなるほど力を込めて、いっそ捻じり上げようとでもするかのように。

トバリはそんなゾンビマンを冷めた目で睨みつける。

「……あの、痛いんだけど」
「痛いようにしてるからな」
「離してくれない?」
「嫌だね」

身を斬られるような鋭い視線を受けながら、しかしゾンビマンは怯まなかった。ずいっ、と鼻先同士が触れ合いそうなほど顔を近づけて、ことさら表情を凄絶に歪める。

「他の男の匂いがする」
「煙臭いくせに、そんなことわかるわけ?」
「お前、また他の野郎と──」

ゾンビマンの台詞はそこで途切れた。トバリの左腕の袖口から放たれた小型ナイフが彼の喉に深々と突き刺さっていた。手首に巻いていた黒いレザーベルトの、そこに括りつけられていた発条仕掛けによって射出された暗器が、ゾンビマンの首を裂いて鮮血を噴き出させた。

火を見るよりも明らかな、致命傷だった。

ゾンビマンの体が床に頽れる。どくどくと溢れる赤い液体がフローリングに広がっていく。その惨状を見てもトバリは顔色ひとつ変えることなく、冷静にゾンビマンの首からナイフを抜き取って軽く振った。付着していた深紅の飛沫が飛んで、壁に不規則な斑模様を描いた。

地に伏したまま、血に伏したまま動かないゾンビマンに──

「狸寝入りはやめなさいよ」

あろうことか、トバリはそう声をかけた。心底つまらなさそうに。めんどくさそうに。どうでもよさそうに。
返事などあるはずもなかった──はずだった。

「面白くねーリアクションだな。もっとびびってくれよ。出会った頃みたいにさ」

喉元をさすりながら体を起こしたゾンビマンは、残念そうに肩をすくめてみせた。首筋から手が離れて、ばっくり縦に長い空洞がお目見えする──と思いきや、そこに傷など存在していなかった。なんの痕跡も残さず、綺麗さっぱり消えてしまっていた。
彼の軽口を黙殺して、トバリはナイフの刃をジャケットで適当に拭った。腥い鉄の臭気を含んだ、大小さまざまの赤い染みが点々と踊る深緑色の厚手の生地に、またひとつ同じ色の汚れが増えた。

「あのときのお前はかわいかった。何べん刺しても突いても潰しても殴っても斬っても死なない俺に“どうして生きてるの?”なんて聞いてきやがった、あのときのお前は──最高だったよ」
「それ、褒め言葉のつもり?」
「お気に召さないか」
「最低だわ。だからモテないのよ」

侮蔑の混じった口調で吐き捨てて、トバリはナイフを手首のベルトに戻した。返り血によってひどい有様となっているジャケットを脱いで床の血溜まりへ投げ込むと、そこを磨くように足で踏み躙った。まだ温かい“それ”はあっという間にジャケットを赤黒く染め上げて、その生々しく濡れた感触は踵から確実に伝わっているはずなのだが、トバリは無感動で無機質な顔を崩さない。

「おいおい、雑巾じゃねーんだから」
「こんなに汚れちゃったら、もう洋服じゃないわよ、こんな布切れ」
「他の男の血がついたもんで俺のを拭かれると、胸糞が悪い」
「馬鹿じゃないの。気持ち悪い。この変態」
「変態なのはお前もだろ? “殺人狂”さんよ」

ゾンビマンの揶揄に、トバリは不愉快を隠そうともせず露骨に顔をしかめた。しかし彼の言うことは事実なので、嫌になるほど正鵠を射ているので、トバリは反論できない。

彼女は現在、巷を騒がす“連続殺人鬼”なのであった。

夜ごと徘徊しては標的を探し、そして殺す。老若男女、一切合切、問わずに殺す。刺殺、絞殺、撲殺、斬殺──まったく一貫性のない殺害方法で。十人を超える被害者たちに唯一共通していたのは、その遺体が見るも無残な状態であったというただそれだけであった。原型を留めていたものはひとりもいなかった。あまりにも大胆で不敵な手口でありながら証拠も目撃情報も不気味なくらいに出てこなかったため、警察の捜査は難航していた。実体のない亡霊の仕業なのではないかという噂まで出はじめていた。

“あの日”も彼女は同じように獲物を求めて人気のない路地を歩いていた。事件がセンセーショナルにメディアで取り上げられるようになってから人々の危機感は増大したようで、夜道をひとりで歩くような不用心を冒す者は減少した。絶滅したと言ってもよかった。一滴の血も見られない地獄が三日も続いて、彼女の欲求不満は限界に達しつつあった。

そんななか出くわした男は自分をヒーローだと誇らしげに名乗った。しかしそんなことはトバリにとって頭に入れるまでもない些事だった。少しは“やれる”のかな、こっちも怪我のひとつやふたつくらい覚悟しなければならないかな──と、ほんのちょっと懸念する程度の情報でしかなかった。興奮に心臓を高鳴らせながら、それでいていつもよりやや慎重にナイフを滑らせて、男はその兇刃にあっさりと切り裂かれた。

こんなものか、と正直トバリは拍子抜けした。それでも久々に犯した殺人の快感は凄まじいものがあった。狂ってしまいそうなほどの陶酔に身を任せ、彼女はたったいま息の根を止めた男を“解体”しようと死体の側に跪いた。その腕がいきなり持ち上がって、トバリの手首を掴んだ。驚いて反射的に男の肩から先を切断して飛び退いた。男の目がかっと開いて、こちらを見た。彼は体を起こし、混乱しているトバリに対して──にいっ、と口の端を吊り上げた。

殺しても殺しても殺しても殺しても彼は死ななかった。殺されてくれなかった。やがてトバリは彼が“そういうイキモノ”なのだと認識して、殺害を放棄した。腹部を掻っ捌いて引き摺り出した細長い臓物で手と足を拘束し、動けないようにしてから、疲れ果てた気分で家へ帰った。返り血で汚れた衣服を処分して、熱いシャワーを浴び、ベッドに入ってとっぷりと眠った。昼過ぎに目を覚ますと、リビングには縛って転がしておいたはずの彼がいた。我がもの顔で煙草をふかしていた。呆然と口を開けて自分を見つめているトバリに、彼はにっこりと笑って右手を軽く挙げて「おはよう」と言った。彼がトバリにつきまとうようになったのはそれからだった。

「これからは俺がお前に殺されてやる。何回でも殺されてやる。だから無差別殺人なんて馬鹿なことはやめて、俺だけに執着しろ。手当たり次第に手を出すなんて節操のない真似は終わりにしろ」というのがゾンビマンの言い分だったが、トバリはそんな彼の要求など相手にしていなかった。さっきもバイト帰りの男子大学生をひとり“喰って”きたばかりだ。

他の男の匂いがする──と。
ゾンビマンはさも妬ましそうに言った。

「犬かよ」
「あ? なんだって?」

舌打ち混じりに吐き捨てたトバリに、ゾンビマンは目を眇めた。聞き取れなかったらしい。

「さっさと帰れって言ったのよ」
「そう冷たくすんなよ」
「不法侵入で告訴するわよ」
「殺人未遂で逮捕すんぞ」
「ヒーロー協会にそんな権限ないでしょうが」
「犯罪者を警察に突き出してやった経験は何回かあるぜ。まあ、そんなことしねーけど」
「しないの? 殺人鬼が目の前にいるのに? それヒーロー失格なんじゃないの?」
「俺はヒーローである前に男だぜ。惚れた女くらい守れねーでどうすんだよ」

胸焼けのしそうな、使い古された口説き文句だった。

「意味わかんない。どうやったら自分を殺そうとした女に好意なんて持てるのよ」
「それは──どうしてだろうなあ。俺にもよくわからん」

ゾンビマンの無責任すぎる回答の放棄に、トバリは呆れ返って二の句が継げなかった。そんな彼女の態度などお構いなしで、ゾンビマンはにやにやと笑いながら腰を上げた。自身の血液でじっとりと重くねっとりと赤くなったコートの襟を正しつつ、どこか陶然とした表情で続ける。

「俺だけにしとけよ。そしたら被害者はこれ以上増えねーし、お前は欲求不満の恐怖から解放されるし、俺はお前と一緒にいられるし、いいことづくめだろ」
「死なない生物なんかに興味ないわ。殺しても殺せないなんて、ちっとも面白くない。あたしは“殺して”、“死なせる”のが好きなの。あんたは埒外よ。だから諦めて帰ってあたしの前に二度と現れないで」

絶対零度の拒絶を示すトバリに、ゾンビマンは。

「──わかってねーなあ、お前」

その笑みをますます陰惨なものへと変貌させて、言う。

お前を幸せにできるのは、俺だけだ

その自信は一体どこから湧き出てくるのかと、トバリは頭を痛めた。こいつにはまともな論理が、論拠が通用しない。生産的な会話が成立しない。どんな思考回路をしているのだろう。きっと彼の頭蓋の中には玉のような脳味噌が鎮座していることだろう──と考えて、小指の爪の先ほどの些細な知的好奇心が生まれた。

今から頭をかち割って、内側を覗いてやろう。それからスクランブルエッグのように掻き混ぜてやろう。どうせすぐに再生してしまうのだろうが、今よりはもっとレヴェルの高いものが出来上がるかもしれない。トバリは背中に──ジーンズと腰のあいだに挟んでシャツで覆い隠してある大振りのミリタリーナイフに意識を集中した。この人殺しの道具を引き抜いて、逆手に構えて、快楽殺人者の女を愛しているなどとトチ狂ったことを謳う男の額に突き立てるまで、所要時間は約二秒半。

まるで呼吸をするように右手を動かすトバリは、このとき自分がどんな顔をしていたのか把握していなかった。
汚濁を知らぬ少女のように、無垢に戯れる乙女のように、甘く優しく清らかに微笑んでいたことなど。
知る由もないまま、ただ無心で白刃を閃かせた。