Are you insane? | ナノ





私が異常たる所以を言葉に表すとするならば、それは即ち“死が視える”というひとことに尽きる。

物心つくかつかないかの頃から既に私は“そう”であった。赤黒い影がさまざまのところに浮かんでいて、さまざまのものにまとわりついているのが視えていた。

小学三年生の夏休み、母方の実家に里帰りをした。祖母の周りに影がびっしり蠢いていて、私は泣きじゃくりながら「おばあちゃんが死んじゃう」と両親に訴えかけた。両親は戸惑いながらも「滅多なことを言うな」と私を叱りつけた。しかしその一週間後、祖母は帰らぬ人となった。蜻蛉返りで二度目の帰省をすることになった。もとより高齢であったし、持病という爆弾を抱える体だったので、私が祖母の死を予知していたなどとは親戚筋の誰も思っていなかった。母親はずっと祖母の棺の前で声を上げて落涙していた。大人が泣いているのを見たのはそれが初めてだった。胸を鎖で締めつけられるような感じがした。私はこの不可思議な能力のことを誰にも話してはいけない、と自らに枷を架した。

その影が大きければ大きいほど、そして色が濃ければ濃いほど、その対象が“死”に近いということを中学生のときに理解した。やつれた野良猫や、道ゆく中年のサラリーマンや、規則正しく立ち並ぶ街路樹にまで、赤黒い死の象徴はまるで寄り添うように点在していた。誰とも共有できない異質な世界のなかで、私は孤独な思春期を過ごした。

高校に上がって間もない五月のことだった。通学路で大規模なビルディングの建設工事が行われていた。骨組みを覆い隠すためのシートが夕焼けに赤く照らされていた。はるか上空に吊られた重機に影がまとわりついているのが見えた。家に帰るためには、その下をくぐって通らねばならなかった。しかし私がそこに近づけば近づくほど、影は大きく濃くなった。私は本能的に足を止めた。いきなり立ち止まった私を怪訝そうに横目で流して追い抜いていった大学生らしき数人の男女の、全員に影がこびりついていた。立ち尽くす私から離れていくにつれ、彼らにまとわりつく影はどんどん膨らんでいった。

なんの前触れもなく重機を吊っていた鋼鉄のワイヤーが切れた。支えを失ったそれは鼓膜を打ち破らんばかりの轟音とともに地面へ突き刺さった。大学生たちは誰ひとり欠けることなく仲良しこよし、その下敷きになっていた。阿鼻叫喚の悲鳴の大合唱が巻き起こるなか、私は腰を抜かして震えながら、今後あの影には近づかずに生きていかなければならないと思った。



……それなのに。
どうして──こんなことになったのか。



全力で走って逃げながら、ぶれる視界に赤黒い影が過ぎった。数メートル先の、舗装された歩道──半径およそ一メートルほど。私は軋む全身に鞭打って、跳ねるようにそこを避けた。その刹那、影の蠢いていた箇所に“そいつ”の鋭い蹴りが直撃した。タイルがめくれあがり、砕け、亀裂が走った。私は勢いあまって転んで地面を滑った。すりむいた膝から血が滲んだ。

「……おっかしーなあ、今のは会心の一撃だったんだけどな」

悔しがるようなことを言いながら、背後から聞こえるその声は弾んでいた。どこまでも楽しそうだった。蟻の行列を追いかけて潰す子供のような無邪気な残酷さに溢れた口調だった。
私は恐慌に顔を歪めながら、目に涙さえ浮かべて“そいつ”に振り向いた。

なんともふざけた衣装に身を包んだ、禿頭の若い男だった。マントが風に靡いて、不規則に翻る。

「なあ──なんでお前、逃げられるの?」
「……っ、いや、やだあっ、来ないで……!」

無様に手足をばたつかせて後ずさる私を見て、“そいつ”は笑っていた。

「どう見てもただの女の子なんだけどなあ。おかしいなあ。でも実際、当たらねーんだもんな。……なあ、お前、一体なんなの? 怪人なの? 違うの?」

質問を投げかけながら、そいつは一歩、前に歩み出た。その瞬間に、私が尻餅をついている場所に影が落ちる。私は半狂乱になりながら飛びのいて、そこから逃げた。そして再び走り出したところで、爆発でも起こったんじゃないかというような音が耳を劈いた。

彼は数日前、私の住む街を襲った怪人を撃退しにやってきた“ヒーロー”であった。私はその現場に運悪く居合わせていたが、持ち前の“視力”でもって怪人の繰り出す攻撃を躱し、逃走を試みていた。遮断機の下りた踏切にぶつかったので、私はタイミングを見計らって影の吹き溜まった線路へ飛び出した。私はほとんど転がるようにして線路の横断に成功したが、数瞬ばかり遅れて追ってきた怪人はやってきた電車に撥ねられその肉体を粉々に飛散させた。

その光景を目撃した“ヒーロー”は、なぜか今度は私を標的に据えたようだった。

その理由はわからない。わかりたくもない。ただ、それから彼は毎日こうして私を追い回しに来る。やめてほしいと懇願しても、助けてほしいと哀願しても、すべて無駄だった。

「……うーん、脚もそんなに速いわけじゃねーし、本当に一般人なんだよなあ。でも確かに怪人とやりあってたもんなあ。一発も食らってなかったし。俺の攻撃も当たんねーし。なあ、あんとき怪人を電車にぶつけたのも、あれ、わざとだったろ! フツーの女子にできるような芸当じゃねーよな! ……って、おーい、聞いてるー?」

間延びした声が迫ってくる。
どんどん──後ろから、近づいてくる。

「……うあっ!」

長時間の全力疾走に疲弊しきった足が縺れて、私は前のめりに倒れた。すぐさま立ち上がろうと腕に力を込めたが、彼が目の前に立ちはだかったために、私の全身は意に反して硬直してしまった。

「……う、……ぁあ……」
「俺さあ、実は、ちょっと寂しかったんだよ」

彼は──私の眼前に屈み込んで、そんなことを言った。

「どいつと戦っても、一撃で終わっちまうんだ。他のやつらが死にもの狂いで戦ってるような怪人でも、誰の手にも負えないような怪物でも、一撃なんだよ。ちっとも張り合いがなくて、なんていうか、俺だけ除け者にされてるみてーなさ。こんな風に逃げられんの、お前が初めてなんだよ」

どうやら私は賞賛されているらしかった。しかし残念ながら、まったく嬉しくなどない。
対して彼は、欣喜雀躍といった様子で私に語り続ける。

「だから、俺、嬉しいんだよ。楽しいんだよ。お前と会えて」
「…………私は、嬉しく、ないし、楽しくない」
「そんな悲しいこと言うなよ。奇跡だって思ってんだから」

そう嘯いて、彼は顔を綻ばせた。少し頬が赤い。照れて──いるのだろうか。私は心底、ぞっとさせられる。

恐怖のメーターが振り切って、私は遂に涙を堪えきれなくなった。堰を切ったように、箍が外れたように、ぼろぼろとみっともなく泣いた。それでも彼は笑っている。目をきらきらと輝かせながら、怯えてうずくまる私を見ている。

「……もう、やめてよ」
「やめない」
「私につきまとわないで!」
「いやだ」
「あんた狂ってる! 頭おかしいんじゃないの!」

喚き散らしても彼の表情は微塵も揺るがなかった。
怖くて、悔しくて、涙が止まらない。

「しょーがねーな。明日、また来るよ」
「……もう来ないで、……お願いだから……」
「泣くなよ。せっかくお前かわいい顔してんだからさ」

破壊された街並みの、ほとんど廃墟の様相と相成った瓦礫の山に囲まれて、彼と私はふたりきりだった。周辺の住民はとっくに避難したのだろう。崩落した建物に押し潰されて哀れな肉塊と成り果てた一般人がゼロであることを、私は必死に祈った。

去っていく彼の後ろ姿を、なす術もなくぼんやりと見送る。
突如、彼が振り返ってこちらを向いた。それだけで私は身を竦ませる。心臓が耳元まで移動してきたかのように、鼓動がやかましかった。自壊しそうなほどに早鐘を打っていた。

しかし彼は戻ってくるようなことはなく、私へ大きく手を振ってきた。まるで別れを惜しむように、離れがたいと全身で伝えようとするかのように、大きく手を振ってきた。私はもう立ち上がることもできなかった。体中の力が抜けて、いうことを聞いてくれない。いっそこのまま醒めない眠りにつくことができたらどれほどいいだろうかと思った。

彼がなにか叫んでいるようだった。距離が開いているので、うまく聞き取れない。彼の言葉なんて耳に入れたくなどないのに、私は自然と聴覚を澄ませてしまった。
叫びたくなるほど後悔した。



絶対に逃がさねーからな! 俺の運命のひと!」