Are you insane? | ナノ





彼女は昨日も夕飯を抜いていた。
恐らく職場の健康診断が近いためだろう。体重を気にするのは世の女性の常だ。しかし彼女は決して肥満体型というわけではないのに、なぜそうも神経質になって肉を落とそうとするのだろう。標準の数字を維持できているのは素晴らしいことのはずなのに。俺にはわからない。

彼女は欠かさず二度寝をする。
どうにも寝起きがすこぶるよろしくない。五分おきのスヌーズ設定が機能するたび、寝惚け眼で鬱陶しそうに携帯電話のアラームを切っている。そして時間ギリギリになって、慌てて支度に入るのだ。化粧もおざなりに、適当に髪を梳かして、なにも腹に入れず家を飛び出ていく。そして必ずコンビニに寄って栄養ドリンクを買い、それだけ飲んで出勤する。いつか具合を悪くするのではないかと俺は心配になる。

彼女はいつもランチを外で食べる。
他の同僚たちが弁当を持参しているなか、彼女は昼休みに入るとすぐさまファストフードショップへ向かう。オフィス街には各種さまざまの店舗が乱立しているため、彼女は自己流のローテーションを組んで味に飽きないよう工夫していた。今日は新鮮な野菜を挟んだフレッシュ・サンドイッチの専門店を利用する日だった。好みでパンの種類やドレッシングをカスタムできるサービスを、偏食家の彼女はことのほか気に入っていた。毎度のごとく苦手な野菜だけ抜いてもらっている。彼女のその子供のような味覚を俺はかわいいと思う。

彼女は満員電車が嫌いだ。
まあ好んで鮨詰め状態のあの空間に押し入りたがる者などいないだろうが。彼女が帰宅ラッシュの人垣に埋もれ、押し潰され、苦しそうな顔をしているのを見ると、俺は胸が痛くなる。仕事を終えてへとへとに疲れた彼女に対して、あまりにもひどい仕打ちである。ああ神よ、これは労働の義務を果たし一生懸命がんばっている人間への試練として相応しいのでしょうか。

彼女は駅から歩いて家まで帰る。
彼女は出勤時に入ったコンビニにまた寄った。
彼女は缶チューハイとスナック菓子を買った。
彼女はアパートの三階に住んでいる。
彼女は毎回つらそうに階段をのぼる。
彼女は鞄の中で鍵を行方不明にさせる天才である。
彼女は帰宅してすぐにテレビを点ける。
彼女は録画した深夜番組を見るのが趣味だ。
彼女は芸人の素っ頓狂なトークに腹を抱えて笑う。
彼女は浴槽に湯を溜めない。シャワーしか浴びない。
彼女は頭をタオルで拭きながら鼻唄を歌っている。
彼女は別の番組を再生するようレコーダーに命じる。
彼女は大きな欠伸をひとつ。
彼女はそれでも布団に入ろうとしない。

夜が昏々と更けていく。

俺は彼女に電話をかけることにした。彼女が携帯を手元に置いているのは見えていた。着信を告げる画面を、俺の名前が表示されているであろうディスプレイを見て、彼女が意外そうに目を丸くするのもよく見えていた。彼女は疑うことなく、すぐさま通話に応じた。

「ジェノスくん? どうしたの、こんな時間に」
「用事があるわけではないのですが。どうせまだ起きているのだろうと思いまして」
「うん、まあ、起きてたけど」

彼女が苦笑を零した。
知っている。──見えているのだから。

「もう遅いですから、寝た方がいいですよ」
「ああ、そうだね。……え、それだけ?」
「今日とても眠そうだったので。疲れているのでしょう。無理しないで、ゆっくり休んでください」
「心配してくれたの?」
「俺はいつもあなたを心配しています」

彼女の顔が少し赤くなった。熟れた果実のような唇がもごもごと動いて、かわいらしかった。

「あ、ありがとう。もう寝るよ」
「そうしてください」
「ジェノスくんも夜更かしだね」
「俺はサイボーグですから」
「それでも睡眠は必要なんでしょ? 最近忙しいみたいだし、ジェノスくんもしっかり寝なよ」

彼女が俺を気遣ってくれた。それだけで胸のあたりが熱に浮かされるのを感じる。感情の昂ぶりを制御できなくなる。とうに失ったはずの心臓が高鳴るような、幻肢痛にも似た切なさに支配される。

「はい。明日、協会に顔を出しますので」
「本当? なにか用事?」
「あなたに会いに行きます」
「……またまた、そんなこと言っちゃって」

彼女は信じていないようだった。嘘などついていないのに。ヒーロー協会に籍を置き、事務作業から窓口業務まで幅広く仕事を任されている彼女に会うため以外に、俺がわざわざ本部まで足を運ぶ理由などないのに。

「でも嬉しいなあ。そんなこと冗談でも言ってくれる人いないんだもん」
「俺でよければ、いくらでも」
「やめてよ。本気にしちゃうから」

彼女はけらけらと笑った。俺はとっくに本気になっているのに。俺のこの気持ちなど露知らず、彼女は余所見ばかりしている。俺はこんなにも。あなたを。
もうあなたしか──目に入らないのに。

「長話をして、すみません。そろそろ失礼します。明日は重役との会議があるのでしょう」
「え? ああ、確かにそうだけど……なんで知ってるの?」
「──それは」

ずっと見ていたからですよ。

と、俺が答える前に彼女は「同じ協会所属だし、知っててもおかしくないか」と勝手に合点して納得してしまった。それから適当に当たり障りのない挨拶を交わして、彼女の方から通話を切った。さっきまで喋っていたのに、俺はもう彼女の声が恋しくなって、思わずまたリダイヤルしそうになる。理性を総動員してその衝動を抑圧し、俺は彼女の部屋を窺った。

彼女の住むアパートの真向かいにあるこの廃墟ビルの屋上からは、室内の様子がよく見える。彼女はいつも寝る間際までカーテンを閉めないので、光量の感度を上げるまでもなく観察は容易だった。不用心すぎるとは思うが、彼女の姿をこうして眺められるのは喜ばしいことなので、俺はなにも言わない。もし仮に他の誰かが彼女を覗き見ているようなことがあれば、俺の探知センサーが自動的に拾うことだろう。すぐさま見つけ出して、逃げたら追いかけて捕まえて、骨も残さず灰にして海にでも捨ててやろうと思う。

彼女は俺が守る。
そのために──こうして見守っている。

「なんで知ってるの、と聞きましたね」

彼女に聞こえるわけがないとは思いながら、俺は呟いた。

「俺は」

独白は夜の闇に吸い込まれて、誰にも届かず消えていく。

あなたのことなら、なんでも知っている

彼女の部屋の電気が消えた。就寝する気になったのだろう。
──おやすみなさい。
心中だけで優しく囁きかけて、俺は明日、彼女となにを話そうかと思索を巡らせる。とても満たされた気分で、なるほどこれが“幸福”という概念なんだな、と俺はひとつ学んだ。