Are you insane? | ナノ





その部屋は一切の照明が落とされており、外からの光もカーテンが遮ってしまっているために薄暗かった。さして広くない室内の中央に、この空間の主である彼女は坐している。フローリングの床に足を崩して、ぼんやりと壁を睨んでいるように見えた。実際は虚空に茫漠と視線を漂わせているだけで、なにも見ていないのだろうけれど。

すぐ背後に立っているジェノスのことなど。
意にも介していないのだろうけれど。

「……泣いても無駄だ

静寂に支配された密室に一滴ジェノスが落とした言葉に、トバリは初めて反応を見せた。ゆっくりと振り返る──その両目から止め処なく溢れている温かい水は、人間が持ち得る感情表現の手段のひとつである。それは感情的緊張によって体内に分泌された化学物質を排出するための生理現象だという俗説もあるにはあるのだが、確たる根拠で裏付けされた理論ではないので、現代において俗説はあくまで俗説なのだった──ともかく、その機能を手離してから久しいジェノスには、語るべき資格のないテーマといえよう。

「泣いたところで、喪った人は、帰ってこない」
「…………………………」
「二度と戻ってこないんだ」

突き刺すようなジェノスの物言いに、トバリは頬を引き攣らせた。笑った──のだろうか。

「そうだね」

彼女の絞り出したその声音は、吹き荒れる風に晒された破屋のように頼りなく震えている。

「……なんで死んじゃったんだろうね……」

まるで返答を期待していない疑問形が宙に舞って、霧散して消えた。あまりにも痛ましい忘我のトバリに、ジェノスは心臓を針の筵に放り込まれた思いがした。もっともサイボーグである彼に臓器など備わっていないので、それはつまらない比喩でしかないのだけれど──そうとしか言いようがなかった。それ以外に胸部に充満している息苦しさを表現する手段がない。

「お前には、俺がいる」
「……………………」
「亡くしたものは、俺が埋めてやる」

だから。
そんな顔をしないでくれ──と。
言外にジェノスは傷心のトバリへ訴える。

「……優しいんだね、ジェノスくん」
「愛してるんだ。お前を」
「あの人も、そう言ってくれた」
「トバリ」
「愛してるって、私とずっと一緒にいたいって、言ってくれてたのになあ……」
「でもお前は、あの男と交際していたわけではないんだろう?」
「交際って……言い方が固いなあ、ジェノスくん」

トバリは茶化して誤魔化そうとしたらしかったが、ジェノスには通用しなかった。くだらない冗談で終わらせる気はない──と、人間離れした夜闇のように黒い双眸が物語っている。

「……だって私には、そんな資格がない」
「資格?」
「私は今まで、誰のことも愛したことがない」

誰かを特別に思い。
誰かを格別に想い。

汚い理屈とか醜い打算とか媚び諂った建前とか、
そういう一切の損得勘定を抜きにして、
他人を愛したことなんて、一度もなかった。

トバリは悲しげにそう言った。

「それでも嫌われるのは怖くて、見限られるのは恐ろしくて、曖昧に返事を先延ばしにしてきて……ずっと彼を傷つけてきた。私はそれに気がついていて、それでも知らない振りをした。いつか彼の心が冷めて、私がいたことさえ忘れてくれればいいって思ってた」
「………………………………」
「なんて狡いんだろうね。なんて卑怯なんだろう。誰のことも愛せないくせに。自分のことしか考えてなかったくせに、こんなふうに泣いたりして……なんて気持ち悪いんだろうね」
「……お前がどんな人間だとしても」
「だとしても?」
「俺はお前を愛してる。それは変わらない。絶対にだ」

ジェノスの断言に、トバリは一層、苦悶の表情を濃くした。どうして──どうしてそんな顔をするのだろう。ただ笑ってほしいだけなのに。こんなにも愛しているのに。どうして──

「ジェノスくんは、いい子だと思う」
「トバリ」
「私なんかにはもったいないよ」
「関係ない。俺は、お前が」
「それでも私は君を愛せない」

断言──だった。
取りつく島もないくらいに。

「どうして」
「……どうしてだろうね。なんでこうなっちゃったんだろう」
「俺はお前を裏切ったりしない」
「知ってるよ」
「ずっと死ぬまで──お前だけだ」
「知ってる」
「お前は信じてくれないのか、俺を」
「……どうしたらいいの? 他人を信じるって、どうすれば正しいの? そんなこと学校で習わなかった。教科書には載ってなかった」

誰も教えてくれなかった。
トバリは呟いて、濡れた睫毛を伏せた。

「私はもう、どうにもならないよ」
「そんなことは──」
「もう全部どうでもいい。どうにかなるとして、今更どうにかしようとも思わない。私はもう疲れた。面倒になった。苦しいことを乗り越えるために、血眼になって楽しいことを探して、人生は美しくて素晴らしいものなんだと自分を騙して思い込むのに飽きた。頑張らないと幸せになれないなら、幸せになんてなれなくていい。そもそも幸福なんてものに、欲望が満たされることに、他人から愛されることに、そこまでの価値があるとは思えない──どうでもいい」

それは全否定で。
それは総拒絶で。
すべてからのリタイア希望。
すべてへの、リセット願望。

自分を取り巻く世界への困憊と嫌悪と侮蔑。
それは──ジェノスさえも、例外ではない。

「……俺は、それでも、お前が、」
「ジェノスくんのそれは、ただの執着だ。もう愛でもなんでもない。ただ我を通したいだけの、ガキの我儘みたいな自己満足の塊だ──そんな気持ちの悪いモノの矛先を、私に向けないで」

怜悧に研ぎ澄まされた言葉の刃が、ジェノスに刺さる。
弾かれるように、勝手に体が動いた。機械によって構成された全身が、統御を離れて爆ぜる──トバリを床に押し倒して、その矮躯の、細い首筋に十指が渾身の力で食い込む。

転倒の衝撃によって、トバリは傷を負ったらしい。鮮烈な赤が後頭部からフローリングにじわじわと染み出して、彼女の髪を濡らしていく。それでも彼女は顔色ひとつ変えない。激痛に苛まれているはずなのに、冷め切った無表情で、ジェノスをただ見据えている──

「俺は、俺、がっ、こんな……俺は! お前、だけで、こんな……なのに! 俺はっ、もう、お前なのに──どうして!! どうしてなん、だっ、────!!!!」

意味を成さない、支離滅裂な絶叫が劈く。
愛するひとの絶対零度に凍りつき、打ち砕かれた青年の心が悲鳴を上げている。

トバリの唇が、ほんの僅かに動いた。
明瞭に声を発したわけではなかったが、ジェノスは彼女の言いたいことを読み取った。
読み取って──しまった。



──ここで終わらせて。
──最期は、君がいい。



ああ、彼女は望んでいる、終結を、エンディングを求めている、その人生の、苦悩と懊悩に満ちた生涯の閉幕を、託された、愛する彼女の。それが唯一の願いならば、そして、叶えられる者が、他にいないなら、そうか、いや、それでいいのか、それで、いい? いいのか? いいんだろう? いいんだよね? ねえ、なんとか言ってくれ、言って、言って、行かないで、それで、いいの?

これでいいんだろう?
ずっと──こうなりたかったんだろう?

その縋りつくような問いに、答えが返ってくるわけもなく。
ただジェノスは神に祈るしかなかった。
もう二度と動かない、目を開かない、たった今この手で“終わらせた”彼女が、どうかもう苦しまず、うつくしい孤独の中で、安らかに眠ってくれるようにと──祈ることだけだった。

この独りよがりのエゴイスティックな咎は。
怪人でもなく、犯罪者でもない女性の命を奪った罪は。
一生ずっと自分が背負っていく。

燃え盛って灰になった、真実の愛の証明として。

そしていつか、豹変して──牙を剥いて。
この金属の、紛い物の心臓を。
嘲笑うように押し潰してくれればいいのにと思う。