Negative Edge Trigger | ナノ





「え? ヒーロー試験?」
「おう。明日受けに行くんだよ」

のどかな昼下がり。
総合病院の地下、もといベルティーユ邸のとある一室にて、サイタマとヒズミはのんびりと談笑していた。
そこはベルティーユがヒズミのためにこしらえた喫煙所であった。もとはどういう目的で使われていた空間なのか、それは定かではない。リノリウムの床に、路上の喫煙スペースで見かけるような大きさの灰皿がぽつんと置かれている。立地条件的にもちろん窓は存在しない。その代わり四隅に設置された空気清浄機が、自らの役目を果たすべく健気にフル稼働していた。

「サイタマさんもジェノスさんも、プロのヒーローじゃなかったんですか?」
「……うん」
「てっきり上位の方なのだとばかり」
「…………まあ、俺にもいろいろあるんだよ」

まさかヒーロー名簿の存在を知らなかったとは言えない。
変な忍者に絡まれて知名度の低さを思い知らされたのがショックで弟子(仮)のジェノスまで巻き込んで試験を受けに行くのだとは口が裂けても言えない。
目を泳がせているサイタマの隣で、ヒズミが新しい煙草をくわえる。手慣れたふうに先端に親指を押し当てて、軽く火花を散らすと、それだけで火が点いて紫煙を細く立ち上らせた。

「便利だな」
「ライター代が浮いて、助かってますよ」
「煙草、自分で買いに行ってるのか?」
「いいえ。ここに来てすぐ教授が大量に調達してくれたので、それをちまちまいただいてます」
「……あの教授、随分と羽振りがいいみたいだけど、どっから費用出てきてるんだ?」
「パトロンから湯水のように研究資金をもらっているとかで。そうでなくても、これまでに仕事で得た貯金だけで七回くらいは一生遊んで暮らせると言っていましたが」
「……景気のいい話だな」
「闇医者ならぬ闇学者だそうですよ」
「メシとかどうしてるんだ?」
「それも教授が。もっとも、あまり食事は摂っていないんですけれど」
「ええ? そんなんで大丈夫なのかよ」
「大丈夫みたいですよ。教授が言うには、私の体は睡眠によって“充電”しているらしくて……寝るだけで生活に必要なカロリーはまかなえるみたいなんです。ただそれでは栄養が偏るので、一日に一度は食事しています。理論上なら一週間くらいはその“充電”だけで保つそうです」

なんとも──常識を超えている。
これが“進化”か。
「もう彼女をヒトという生物にカテゴライズすることはできない」というベルティーユの言葉の意味を、こうしてじわじわと実感していくサイタマだった。

「なんか……、すげーんだな」
「髪も真っ白になっちゃいましたしね」
「は? それ元からじゃねーの?」
「違いますよ。事故の前までは普通の黒髪でした」
「俺らが見つけたときはもう白かったぞ」
「それは興味深いね。じっくり聞かせてもらいたいな」

いつの間にかベルティーユがわずかに開けたドアの隙間からふたりを覗いていた。
ついでにジェノスもそこにいた。

「どわっ! びっくりした!」
「お疲れ様です」
「うむ。ジェノス氏の整備がやっと終わったよ。もう万全だ。訓練再開できそうかい?」
「あ、大丈夫です。行きましょう」

ヒズミは短くなった煙草を灰皿に放り込んで、備えつけのベンチから立ち上がった。
そしていつもの実験室──新たに「戦闘訓練ルーム」と名付けられた、あのだだっ広いだけの空間へ連れ立って向かう。

「しかし教授さんよ。あんたサイボーグの整備なんかもできるんだな」
「専門外だから、あまり大したことはできないけれどね。私に可能なことといえば、調子の悪いパーツを修理するか交換することくらいだ。とくにジェノス氏は精密な造りをしていたから、久々に腕が鳴ったよ。きわめてレヴェルの高い機械工学、生体力学の融合した叡智の結晶だ。ぜひクセーノ博士とやらと一度お会いして話を聞きたいね」

ベルティーユは心持ち興奮しているようだった。鼻唄でも飛び出しそうなほど、機嫌がいいのが見て取れる。

「すいませんでした。私が程度を弁えていなかったばっかりに……」
「それは違う。原因は俺の慢心だ。お前の雷撃を防げると判断し、結果として左腕を持っていかれた……実際の戦闘であったならば取り返しのつかない油断だっただろう」

左手を握ったり開いたり、動作を確認しながら、ジェノスはどこか悔しさを滲ませる。

つい一時間ほど前、例の戦闘訓練ルームにて起こった出来事──ジェノスの先述の通り、ヒズミの放った高圧電流によって彼の左腕は破壊され、訓練は一時中断となったのだった。ベルティーユが修復を申し出たとき、最初ジェノスは「他人にボディの内部を触らせるわけにはいかない」と渋っていたが、取り急ぎの応急処置だから案ずることはない、それにそんなひどい格好で院内をうろつかれては患者に不安を与えてしまう、などと丸め込まれ、仕方なくベルティーユに委ねる形となったのだが、現在の彼の様子を見ている限りでは、改めて手を加えるまでもないようだった。

「こんな体たらくでは、俺にヒーローになる資格などありません……。試験を受けるのはまだ早いかもしれません、先生」
「いやいやいやいや! 大丈夫だって! お前ならやれるって! 今回のはたまたまだろ、同じ失敗を繰り返さなきゃいいんだよ! 大丈夫だって!」

サイタマが慌ててフォローに入る。ここでジェノスにヒーロー試験を辞退されてはのこのこ自分だけで参加しなければならなくなってしまう。それだけは避けたい、というひどく情けない心理から出た言葉だったが、ジェノスは素直に「先生のお墨付きをいただいた……!」と感激していた。

「ヒーロー試験か。まあ、サイタマ氏の言う通り──君のポテンシャルをもってすればさほど難関ではないだろうと推測するよ、ジェノス氏。私の保証などなんの足しにもならないだろうが、一応、太鼓判を押させてもらおう。もっとも、油断しなければ、だがね」

シニカルに口を歪めるベルティーユに、ジェノスは「肝に銘じます」と頷いた。心持ち言葉遣いが丁寧になっているのは、恩を感じてのことなのか、はたまた改めて彼女の頭脳および技量に感服したからなのか。
なにはともあれ。
なにはなくとも。

「試験が終わったら、お祝いをしなければいけないね」
「まだ受かるって決まったわけじゃねーけどな」
「問題ないだろう。私はあまり心配していないよ」
「どうだかなあ……」
「正式に合格が発表されたら、食事にでも行ってくるといい。とびきりの店を予約しておこう。無論、私の奢りでね。ついでと言ってはなんだが、ヒズミも連れていってやってくれ。彼女は事故以来ここに閉じこもりっきりだ。そろそろお天道様の恵みを享受しなければなるまい」
「お天道様の下に出た方がいいのはアンタもじゃねーのか?」
「私は遠慮しておくよ。この人間離れした天才的な頭脳と引き換えに、紫外線を浴びると細胞が溶けてしまう特異体質に生まれてしまったのでね」
「…………マジで?」
「嘘だよ」
「嘘かよ!」

通路にサイタマの突っ込みが響き渡った。

……かくして、この数日後、サイタマとジェノスは無事ヒーロー試験に合格する。ランクの差はあれども、埋めようのない大きな差があれども、晴れて二人はプロのヒーローを名乗ることが許された身になるのだった。

しかし、それから間もないうちに世間を揺るがす大事件に巻き込まれることなど──
このときは、誰ひとりとして知る由などなかった。