Negative Edge Trigger | ナノ





唸りをあげて飛来する鉄拳を、ヒズミは紙一重で躱した。

左に倒れながら、その勢いを利用して、右脚で回し蹴りを放つ。相手がそれを受け止めると、そこから強烈な電流が走った。すさまじい音を立てて、閃光が迸る──が、相手はそれをものともせず、足首を掴んで思いきり放り投げた。ヒズミの体はあわや剥き出しのコンクリートの壁へ叩きつけられるかと思いきや、くるりと空中で身を翻して体勢を整え、そのまま壁を蹴って相手へ突っ込んでいく。
それと同時に、矢を模した高圧の電気の塊を相手に撃ち込んだ。一発、二発、そして渾身の三発目。容赦ない雷撃は相手を直撃し、轟音とともに粉塵が巻き上がる。

猛攻を繰り出し、息を切らしながら地面へ降り立ったヒズミの背中に、

「チェックメイトだ」

硬い掌が押し当てられた。

「…………参りました」

ハンズ・イン・エアーのポーズで、ヒズミは背後の相手──ジェノスに降参の意を示した。
ジェノスが腕を下ろすと、ヒズミはすぐさまその場にへたりこんだ。肩を大きく上下させつつ額を伝う汗をおざなりに拭う。

「やっぱり、素人がそう簡単には勝てないですね」
「経験の差もあるが、なにより継続して動けないのが致命的だな。いくら神経系を流れる電流を操作して反応速度や肉体駆動を極限まで高めることができても、数分間の戦闘ですらそのパフォーマンスを維持できないようでは話にならない。しばらくは基礎体力の向上に努めるべきだな」
「承知しました、軍曹」

ジェノスの厳しい言葉に、ヒズミは笑いながら敬礼で答えた。



「………………なにあれ」
「なに、とは?」
「いやいや、なんでついこないだまでフリーターだったねーちゃんが、たった数日でサイボーグのジェノスとあんな死闘を展開できるくらい成長してんの?」
「今ジェノス氏が言っていたじゃないか。神経系を流れる電流を操作して反応速度や肉体駆動を極限まで高めているのさ」
「いやいやいやいや、なんでサラッとそんなことできんの?」
「サラッとできるようになったんじゃない。訓練の賜物さ」

それでもサイタマは納得がいかないようで、なんともいえない表情でふたりを見つめていた。

彼らは現在、X市の総合病院の地下──ベルティーユが住居、兼、研究所としているスペースの、その部屋のひとつにいる。壁と天井それ以外なにもない室内は、その代わりにひたすら広い。ジェノスとヒズミが暴れているのを、サイタマとベルティーユが遠巻きから観察できる程度には広い。ベルティーユいわく「数ある実験室のうちのひとつ」だそうだ。

ジェノスに支えられて、ヒズミがふらふらと立ち上がった。覚束ない足取りながら、自分の足で歩いてベルティーユのもとへ戻る。すっかり満身創痍のヒズミに、ベルティーユは優しく微笑みかけながらタオルとスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。

「お疲れ様。いいデータが取れたよ」
「ありがとうございます」
「すげーじゃん。あんだけやれるんなら、ボディーガードなんて必要ねーんじゃねーの?」
「いえ、そんな」

サイタマが茶化すと、ヒズミは謙遜してかぶりを振った。

「まだまだ未熟ですよ。現にジェノスさんにはまったく歯が立ちませんし」
「比較対象がサイボーグじゃなあ……。しかし神経が電流でうんたらってのは置いといても、それと戦いとは別だろ? 殴ったり蹴ったりの技術ってのは、どこで学んだんだ?」
「ジャッキー・チェンの映画を見ました」
「……………………」
「ジャッキー・チェンの映画を見たそうだよ」
「聞こえてたよ」
「香港国際警察とスネーキー・モンキーが好きです」
「…………ああ、そう」

もはや突っ込む気力もないらしく、サイタマは曖昧に頷くだけだった。

「しかしジェノスが稽古つけてたとはな。知らなかったぜ」
「私が頼んだのさ。君にもお願いしようと思っていたのだがね、ジェノス氏が“自分がやる”と買って出てくれたんだよ」
「先生の手を煩わせるわけにはいきませんので」

なんだか蚊帳の外だった。
しかし、まあ──これまで常識はずれの怪人ばかりを相手にしてきて、ワンパンで片付けてきた身としては、ほぼ素人の女子に対してうまく加減できる自信など皆無なので、絶無なので、これはこれで結果オーライなのかもしれなかった。

「……ふう」

スポーツドリンクを一気飲みして、ようやく呼吸の整ったらしいヒズミが、ポケットから煙草の箱を取り出した。さっきまで激しく動き回っていたせいか、すっかり潰れてしまっている。

「ちょっと一服してきます」
「わかった。少し休憩したら、もう一戦するかい?」
「自分は構わないが」
「ぜひ、お願いします。十分で戻ります」

丁寧に頭を下げて、ヒズミは部屋をあとにした。ベルティーユは足元に置いていたノートパソコンを開いて、驚異的な指捌きでキーを叩いていく。目は傍らのレジュメだけを追っていて、手元などまったく見ていない。ブラインドタッチ、という言葉すら安っぽく感じてしまうほどの、もはや神業の領域だった。

「どうだい、ジェノス氏。彼女の力をどう見る?」
「模擬戦闘訓練を開始してから数日だが、回数を重ねる度に発電量が上昇している。コントロールも板についてきたようだ。最初は俺を目で追うことすらできていなかったのが、攻撃を回避し、さらに反撃に出ることができるレベルまで到達している。能力が“進化”を続けているのは間違いないだろう」
「ふむ」
「それに──肉体の方も、強度が増してきているな。単純に神経系を操作してリミッターを外しているからではない。恐らく細胞そのものが変質し、常人よりも強靭な骨格、筋肉繊維、皮膚組織を形成しつつあるのではないだろうか」
「ふむふむ」
「それゆえに、不安もあるな。変化が超速的すぎる。彼女の肉体はその進化に対応できているのか? 彼女の本来の身体能力は平均の中の下程度しかないだろう。喫煙習慣があるというところを見ても、これまで健康的な生活を送っていたとは思えない。そんな人間が、こんな異常に適応できるのか? 自壊してしまうのではないのか?」

ジェノスの疑問は至極もっともであったが、ベルティーユはこともなげに「その心配はない」と眼鏡のブリッジを触った。

「その対策は万全に整えてある。彼女の変異の終点がどこなのかはまだ未知だが、安全に着地できるよう誘導する目処は立っているよ。アクシデントがない限りは、だがね。油断はできない。だからこうして、日々データを更新している。君の協力のお陰で順調だよ」
「世辞のつもりか?」
「本心だよ。それに彼女には、最低限、自分の命を自分で守れるくらいの力を身につけてもらわなければならない。そのための訓練でもある。どうだい、サイタマ氏もひとつ、手合せしてみないか? もちろん、手伝ってくれた分の報酬は出すが」
「…………あー、いや、俺は遠慮しとく」
「なぜです? 先生ほどの実力者なら、俺よりも成果を上げられると思うのですが」
「いや、さすがに華奢なオンナノコに手を上げんのは気が進まねえな……」

苦し紛れにそんなことを言ってみたら、ジェノスは「なんとお優しい人なんだ……!」と都合のいい解釈で感動しだすわ、ベルティーユは「なるほど、サイタマ氏は見かけによらず紳士なのだね」と失礼きわまりない評価を下すわで散々だったが、なんとか自分が巻き込まれるのは避けられたようだったので、とりあえずよしとしておくことにする。

そんなこんなで。
ヒズミは微かに煙の匂いを漂わせながら、きっかり十分後に戻ってきた。
白く揺れる髪は真冬の陽炎のようで、その奥でなにが目覚めようとしているのか──依然、杳として知れない。