Negative Edge Trigger | ナノ





ことの始まりは、昨日の夜に遡る。

サイタマが行きつけのスーパーの特売から帰宅し、いつもの習慣でなんとなしにテレビの電源を入れると、

「おお。やっと繋がったか」

外国人美女の顔が映し出された。胸から上の、アップの映像だった。映画でもやっているのかと思い、しかし途中から見ても中途半端でつまらないだろうとチャンネルを変えるべくリモコンのボタンを押したが、まったく反応しない。おかしいな、故障かな、と呑気に構えていたサイタマだったが、ほどなくして異変に気づく。

「サイタマ氏、君は今、これが映画かなにかだと思っているね? だが違う。それは見当違いであると、私は親切に教えてあげよう。これはライヴ映像だ。私の研究室から、特殊な電波を使用して、君の家のテレビに接続している。一方的な通信になるので、こちらから君の様子や発言を拾うことはできないと先に伝えておこう」

画面の向こうの美女は、悠然とした口調でそう話した。彼女の銀縁眼鏡の奥の瞳は青く、長い金髪をきらびやかな装飾の施されたバレッタでアップにしている。着用しているのは白衣で、それが嫌味なほど様になっていた。医者もしくは学者……といったところだろうか。画面の半分以上が隠れているので、彼女がどこから通信しているのか判別できない。屋外ではないようだったが、詳しい状況まではわからない。
状況が飲みこめずサイタマがハゲた頭の上に疑問符を浮かべていると、彼が留守のあいだに頼んでおいた風呂掃除を終えたジェノスがリビングへ戻ってきた。

「おかえりなさい、先生。指示されていた掃除、完了しました。……どうかしましたか?」
「おうジェノス、いや、なんかテレビがおかしいんだよ」

そうこうしている間にも、美女は話を進めていく。

「サイタマ氏はジェノス氏と懇意にしているのだったかね。聞くところによると師弟関係だそうだが。ジェノス氏は単独で正義活動を行い、数々の実績を残しているそうじゃないか。そんな実力者の師であるとは、サイタマ氏は一体どういった人物なのだろうね。実に興味深いよ。そのあたりもゆっくり話を伺いたいところだが、残念ながら今回の要件は別のところにある」

「……これは」
「なんかこれライブ映像で、特殊な電波で送ってるとかなんとか。よくわかんねーんだけど。誰なのコイツ」

「申し遅れたね。私はベルティーユ・Q・ラプラスという者だ。長らく大学の準教授をしていたが、現在はX市の総合病院で医師をしている。そこそこ名は知れていると自負しているが、どうだろう。存じ上げないかな」

「なに? この女が……?」
「知ってんのか?」
「ええ、……いやむしろ先生、知らないんですか? ラプラス准教授といえば、あらゆる学問に精通し、各方面で勲章ものの成果を残している、実際かなりの有名人ですが」
「いや、俺あんまり本とか読まないから」
「…………そうですか」

「そんな私がサイタマ氏、君にコンタクトを取ったのは、他でもない。先日の爆発事故で君とジェノス氏が救出した女性について、いくつか質問……というか、確認したいことがあるからだ。先に言っておこう。彼女は無事だ。命に別状はない。しかし、とある“後遺症”が残っている。私も手を尽くしたが、恥ずかしながら、お手上げ状態なのさ。……ふふ、この私が解決できない問題など、何年振りだろうね。正直、少しばかり興奮しているよ」

「……あの白髪頭のねーちゃんのことか」
「そのようですね。後遺症、とは、一体……」

「明日の午前十時、病院内にある喫茶店に迎えをよこすから、そこで待っていてくれないか。可能であればサイタマ氏、ジェノス氏、両雄と話がしたい。ふたりで来てくれると嬉しいね。無論それなりの報酬は出すつもりだ。タダでとは言わないよ。私もそこまで平和ボケしちゃあいない。これは“依頼”だ。そう思ってくれ。それでは。待っているよ」

美女──ベルティーユ女史は、最初の宣言通り一方的に喋って、通信を切断したらしかった。画面に一瞬だけ砂嵐が走り、そしてバラエティ番組に切り替わった。さっきまで電波ジャックされていたとはにわかに信じがたいほど、なんの異常もなく、熱湯風呂に派手なリアクションをかます芸人たちの様子が映し出されている。

「なんだったんだ、今の」
「……このゴーストタウンの、しかもアパートの一室の家庭用テレビに、ピンポイントで通信を繋ぐなど、軍事用レベルの機器と高度な技師の手腕がない限り不可能だと思われます。信憑性は高いのではないかと自分は判断しますが」
「つまり、マジだってことか……」
「どうしますか、先生」
「どうするもこうするも、行くしかねーだろ。一般市民の人命……までは係ってねーみたいだけど、大変なことになってるのは間違いねーんなら、見過ごせないだろ」

サイタマは首を鳴らしながら億劫そうに立ち上がり、キッチンへ向かう。いつもと変わらない、けだるげな様子で、とりあえずメシ食おうぜ、腹減ったわ、とあくびを漏らした。

ついさっきまでの異常事態などまるでなかったかのような素振りで、今日たまたま肉が安かったんだよ、と彼は上機嫌で子供のように声を弾ませるのだった。