Negative Edge Trigger | ナノ





“ジャスティス・レッド”というのがテオドール・ファン・ヴァレンタインの、かつてのヒーローネームであったとジェノスが聞かされたのは、彼が逮捕された翌日のことだった。

“ジャスティスレンジャー”という五人組のチームで、他にブルーとグリーンとイエローとピンクがいたそうだ。サイタマは「ニチアサの特撮番組かよ」と突っ込んでいたけれど、しかし悪と戦う正義の味方としてはこれ以上ないほどわかりやすいモチーフであるといえよう。誰もが一度は憧れ、ああなりたいと夢見るような、ありきたりでも揺るぎのない、そういう確固としたヒーロー像。

テオドールの過去については同情もあったけれど、情状酌量の余地もあったけれど、それを判断するのはサイタマでもジェノスでもなく、民衆によって構成される法規的執行機関である。そしてテオドールを庇い立てするつもりなど二人には毛頭なかった。出るべきところに出て、裁かれるべき罪を裁かれて、負うべき罰を負えばいい。
それからどうするのかは──彼次第だ。

ベルティーユは警察と協会の事情聴取のために連行された。ヒズミにも出頭命令が出された。最初ジェノスはヒズミが矢面に立つのを良しとせず必死に止めたが、事件の全貌と同時に彼女の存在が明るみに出てしまった以上、逃げも隠れもできる状況ではなくなっていた。

それに彼女は進化の“リミッター”を外してしまった。ベルティーユの処置がなければ長くは保たない。たとえ処置があったところで生き永らえられるのかどうかも危ういのだ。明日をも知れない──そういう生命なのだ。

サイタマに宥められ、ジェノスは渋々ヒズミの手を離した。ヒズミは「大丈夫だから」と笑って、彼女自身よりよっぽど悲愴に暮れていたジェノスのもとを去っていった。



それが、そう、一週間前。
あれからもう一週間が経過していた。



ここ最近のニュースは“X市の謎の地下研究所はヒーロー協会幹部によって設立されたものだった”という衝撃的事実で持ちきりだった。人造怪人量産計画については報道規制が敷かれているようで、大々的には取り上げられていない。言及しているゴシップ週刊誌もいくつかあったけれど、突拍子もないネタ記事としか思えない内容であったので、誰もまともに受け取ってはいなかった。

しかし──本日。
現在、この瞬間。
今まさに。

報道番組のトップ・ニュースが挿げ変わろうとしていた。

ジェノスはビルの屋上で、力なく膝をついている。上半身に装備した強化パーツはすべての動力を使い果たして白煙を吹いている。正真正銘ガス欠で、エンプティで──もう一歩たりとも動けない状態であった。

その頭上には、巨大な塊が迫っていた。巨大な──などという形容動詞すら陳腐に感じられるほどの、冗談としか思えないサイズのそれは宇宙空間より飛来した隕石である。意思を持たないがゆえに容赦のない圧倒的な破壊の前兆が、もう逃げられないところまで逼迫していた。

背後の老人──S級ヒーローの先達である“シルバーファング”に退避を勧告してはみたものの、到底それが可能であるとは考えられなかった。

(こんなところで、俺は死ぬのか)

隕石の前に、諦観に押し潰されてしまいそうだった。
また守れない。
あんな大見得を切っておいて。

“彼女”に──合わせる顔もない。

「じいさん」

ふと──聞き慣れた声がした。
振り返らずともわかる。黄色いヒーロースーツに身を包み、マントを翻して──人類のピンチにはいつも駆けつけて、誰にも知られることなく颯爽と解決していく彼がやってきたのだと。

「こいつ任せるぞ」

脚力のみで彼──サイタマは遥か上空まで、ロケットのように飛び上がる。そして拳で隕石を打ち砕いた。隕石は粉々に、無数の礫と化して地上へ降り注ぐ。

しかしそれでも、完全に危機が消滅したわけではなかった。いかに破片といえど、隕石は隕石である──隕石群である。それらが街を直撃すれば、被害は決して少なくはないだろう。

町全体に破壊の波が広がっていく。
──はずだった。

「……………………?」



隕石群は、なんと空中でそのまま制止していた。



ばち、ばちばち、と──白いスパークを走らせながら、浮いている。隕石を構成する金属物質が電流を帯びていた。そして上空へと舞い戻っていく。まるで地面と反発する磁石のように──電磁石のように──

「ま、さか」

ジェノスが背後を振り向いた。

そこには──いつの間にか、彼女が。
膝まで届く白い蓬髪を揺らしながら、立っていた。

「……うわ、本当に押し返せた。隕石ってマジで鉄なんだ。教授の言った通りだ。なんだっけ、オクタ……オクタなんとかライトだっけ……いやあ、宇宙ってすげーんだな」

相変わらずの──緊張感に欠けた物言いで。
全身から青白い火花を散らしながら。

「な──何者じゃね、君は」

シルバーファングの問いに、彼女は額を掻いて。

「通りすがりの“怪人”ですよ」

そう──答えた。

隕石群が突如、爆発した。常軌を逸した電圧の負荷によって、今度こそ木端微塵になった。

「……ヒズミ……」
「ういっす」

おどけたように右手を軽く挙げるヒズミ。

「おひさしぶりーふ」
「…………」
「……なんか反応くらいしてくれよ。スベったみたいになってんじゃねーか」

そうは──言っても。
どうすればいいというのか。

「そんなことより、あの、すみません。シルバーファングさんですよね。S級ヒーローの」
「いかにも。そうじゃが」
「握手してください」
「……ええよ」
「ありがとうございます。うわー、感激です」

なにを呑気なことを。
緊急事態──はもう収束してしまってはいるけれど、終息してしまってはいるけれど、それにしたって。
悠長に有名人に感動している場合か。

「おぬし、ひょっとして──噂の“生存者”か?」
「ご存じですか」
「知らん者の方が少数派だろ。あれだけニュースで毎日やってりゃあな。事故に巻き込まれ、特殊な電磁波の影響で超能力に目覚めた白い長髪の女性……まさかこんな別嬪さんだったとは思わんかったがの」
「え、そんな。やめてくださいよう」

ぬけぬけと照れていた。
なぜだかべらぼうに面白くなくて、ジェノスは二人の会話に割って入った。

「おい、へらへらするんじゃない、ヒズミ」
「なんじゃ若いの、ジェラシーか? 知り合い同士のようじゃが、おぬしらひょっとして……」

シルバーファング──もといバングがにやにやしながら小指を立ててジェノスを伺った。

「違いますよ。そういうんじゃないです」
「なんじゃ、違うのか。つまらん」
「………………」

バングのしたように揶揄されるのは遺憾だったが、ヒズミ本人にこうもばっさりと否定されてしまったのは、なんというか──ひどく心がもやもやした。
端的に言うなれば。
めちゃくちゃショックだった。

「……なぜ俺がヘコまないといけないんだ」
「ん? なんか言ったかの?」

ジェノスが己の内に渦を巻く、焼けるような、妬けるような、溶けるような、融けるようなその感情の正体に気づくのは、どうやらまだまだ先のことのようであった。

しかし。
──それでも。
彼女はこうして生きている。

それだけで充分だった。

「それにしても、ジェノスさんや」
「? なんだ」
「あんなかっこいい啖呵切っといて、なにをのこのこ死にそうになってんだよ。やめてくれよ」

ズボンのポケットから潰れかけた煙草の箱を取り出して一本くわえ、親指で火をつけて、ヒズミはシニカルに笑う。ジェノスはその意図するところが汲み取れずに首を傾げた。

「かっこいい──啖呵?」
「“俺が絶対にお前をひとりにしない”んだろ」

ゆらゆらと、紫煙をくゆらせるヒズミ。

「すげー嬉しかったんだから。ああ、大丈夫だ、このひとがいるなら生きていける、って思っちゃったんだからさ」
「ヒズミ……」
「ちゃんと最後まで面倒見てよ。責任取ってよ」

そう言うヒズミの頬は、やや赤らんでいて。
これまでに出会ったなによりも。
これまでに出逢っただれよりも。
清らかで、美しいと──ジェノスは思った。

「見せつけてくれるのう、おぬしら」
「あらいやだ。お恥ずかしゅうございます」
「ほれジェノスくんや、この健気な別嬪さんを抱きしめて甲斐性を見せてやったらどうじゃ」
「……………………」

台無しだった。

「……まあ、いいか……」

嘆息を漏らして、ジェノスは天を仰いだ。
雲ひとつない青空が目に眩しかった。
そのもとで、ヒズミが輝く太陽と遜色ない、晴れ晴れとした笑顔で立っている。
笑って生きている。
これ以上の幸福があるだろうか。



これで──大団円としよう。
大々団円としよう!



悪夢のような、あの事件の終結が。
凶夢のような、物語の開幕となり。

そして。
願わくば、吉夢のような未来へと続いていきますよう。