Negative Edge Trigger | ナノ





テオドール・ファン・ヴァレンタイン、二十九歳。
かつては名簿にも登録していた、B級ヒーローであった。仲間と組んで、連携を取って、息の合ったチームプレイによる戦闘を得意としていた。そこそこの実績を上げて、彼らのチームは全員がA級に匹敵する実力を有していると太鼓判を押されたが、全員とも階級というものに興味がなかったので、いっそ清々しいほど無欲だったので、最後まで彼らのランクが上がることはなかった。

そのチームは、今はもう存在していない。メンバーのうち生き残っているのはテオドールただひとりだけだ。

チームが壊滅するに至った経緯を説明するためには、時制を数年前まで遡らなければならない。血の気が引く、身の毛もよだつ凄惨な事件を語らねばならないのだが──それはまた、別の話である。



そんな彼は──現在。
自分よりも遥か格下の新入りと睨み合っている。

「なあ、お前さ、なんでこんなことしたの?」
「……お前には関係のないことだ」
「いやいやいや、関係なくはねーだろ。俺だってヒーローなんだぞ。お前は要するに偉い人なんだろ? 俺の上司みたいなアレなんだろ? そいつがなんかわけのわからん妙なことやってんなら、関係あるだろ。大ありだろ。説明しろよ、人造怪人量産計画って──なんなんだ?」

サイタマというらしい禿頭の彼は、テオドールを上司と呼びながらまったく遜る態度を見せていない。よほど自分の実力に自信があるのか、それともただの阿呆なのか、テオドールは推し量りかねていた。

「……怪人の数が増えれば、どうなると思う」
「あ?」
「怪人による凶悪事件の数が増えて、被害が多くなったら、どうなると思う」
「そりゃあ……大混乱になるんじゃねーの。おちおち外も出歩けなくなって、今以上にヒーロー協会は忙しくなるだろ」
「そうだ。その通りだ。僕が狙っているのは──それさ」

テオドールは陰険っぽく口を斜めにした。

「ヒーロー協会の存在意義が、今よりも大きくなる。地位も名誉も、ずっと高いものになる。そうなったら、お前の給料も増えるかも知れないぜ」

下卑た口振りのテオドールに、サイタマはしかし反応しない。

「権力をも獲得できるだろうさ。政治的な、国家の中枢にまで食い込めるようになる。やがて意のままにすべてを操れるようになるんだ。僕たちヒーローという、選ばれし人種がね」
「……お前の狙いはそれだけか?」
「そうさ。他になにがある」
「そりゃあ嘘だな」

はっきりと、サイタマはそう断言した。

「お前はそんな小悪党じゃねえ。本当にそんなくだらねーことを考えてやがるヤツは、そんな目をしてない。お前、なんで──そんな悔しそうな目、してやがるんだよ」
「……………………!」

テオドールが息を呑んで、一歩、後ずさった。

「本当のこと言えよ。ろくに事情も知らずに殴るの、あんまり気が進まねーんだよ」
「…………………僕は」

知らず知らず、口を開いていた。

「かつて──ヒーローだった。今みたいに上から指令を飛ばす立場じゃなくて、実際に現場で怪人と戦うヒーローだった。気の合う仲間と五人でチームを組んで、時には意見が合わずに衝突したりしながら、それでも力を合わせて悪と戦ってきた。──七年前の、あの日までは」
「七年前……?」
「産業廃棄物の処理場で、有毒物質が意思を持ったのさ。警察や軍の手には負えない怪物になって、街へ下ってきた。致死性のガスや、物理的な攻撃に巻き込まれて、多くの人間が傷つけられた。僕たちは使命感を胸にその街へ駆けつけた。決死の覚悟で戦ったよ。その結果、見事に怪物は討伐された。その代償として、僕以外のチームメンバーはみんな死んだ」

死んでしまったんだ。
テオドールは、そこだけ、繰り返した。

「早急に病院へ運んでいれば、命は助かっていたかも知れない。ヒーローとして復帰することはできなくともね。しかし街の人間たちは“一般人が先に救出されるべきだ”と主張して、死にかけている僕の仲間を押し退けて救急搬出車両に押し寄せた。自分の足で歩ける大人までもが目を血走らせて、我先にと殺到した。僕にはどうすることもできなかった。仲間が冷たくなっていくのを、ただ見ていることしかできなかった」
「………………」
「その怪物襲来事件は瞬く間に大ニュースになった。連日テレビで破壊されつくした痛ましい街の風景が報道された。住民の怒りや悲しみは無遠慮なインタビューによって露わになった。彼らの矛先は怪物ではなく、なぜかヒーロー協会に向けられていた。なぜもっと早く来てくれなかったのか。事前にこうなることを察知できなかったのか。安全対策が不十分だったのではないか。これは協会の怠慢による人災だ──と、好き勝手なことを言ってくれていたよ」

自嘲気味に頬を歪めるテオドール。

「インタビュアーの“今回の事件で亡くなったヒーローもいるようですが”という質問に“残念だとは思うけれど仕方がない。それがヒーローの仕事なのだから、命懸けで市民を守るのは当たり前のこと。申し訳ないけど必要な犠牲だった”だと答えたヤツがいた。こんな──こんなクズを守るために、僕の仲間は死んだのかと思った。許せなかった。ヒーローがどれだけ苦しんでお前ら一般市民のために戦っていると思ってやがるんだ! あいつらはちっともわかっちゃいない! あいつらは守られて当然だと信じてやがる! 弱いくせに! 自分たちだけじゃなんにもできないくせに偉そうに! ヒーローをまるで道具のように考えてやがるんだ! 汚い! 汚らわしい! 僕たちが死にもの狂いで戦っても、あいつらはなんにも感じないんだあああっ!」

叫んだ。
絶叫した。
こんなにも取り乱した彼を見るのは、初めてだった。ニーナは愕然と立ち尽くすほかない。

「思い知らせてやるべきなんだ。愚かしい群衆どもに、ヒーローの有難味ってやつを。お前らがどれだけ矮小で、弱小な身分なのかを思い知らせてやるべきなんだ。自分さえ自分で守れないようなくだらねー生き物が、のうのうと甘い汁を啜って生きていられるのは誰のお陰なのか、わからせてやらなきゃならない」
「……だから怪人の出現を増やして、危機感を煽って、この世界にヒーローがどれだけ必要な存在なのかわからせようとしたってのか?」
「そうさ! 自分と似た境遇の、同じ思想の同志を水面下で集めた。長い時間をかけて集めた。怪人を人工的に製造する、という僕の目論見に、道楽に飢えた資産家やアンダー・グラウンドの科学者が飛びついてきた。僕は資金と人脈と知識と技術を手に入れた。そして協会上層部の連中に取り入って、売りたくもない媚を売って、幹部職に就いた。満を持して地下に研究所を建てた。僕の“復讐”は、こうして幕を開けた!」

これが。
これこそが。
“人造怪人量産計画”の真相だった。
深層──なのだった。

「……俺にはよくわからん」
「だろうな。お前はまだ新人だ。なにも知らないんだ……この業界の奥底は、もっと厳しいところなんだよ」

彼がこの台詞を発するのは二度目のことだったのだが、サイタマはそれを知らない。

「絶望する前に、楽にしてやるよ」

テオドールの指先が動いた。そこから伸びる硬糸が──鋼鉄のストリングスが、サイタマの首めがけて生き物のように空中を這って。

羽虫を払いのけるように、サイタマはそれを叩き落とした。

「な……っ!?」

テオドールが驚愕に言葉を失う。勢いを殺されて撓んだ糸をサイタマはがしっと掴み、そして引っ張った。そこに繋がっているグローブも、ひいてはグローブを装着しているテオドールもそれに引き摺られ、前のめりに倒れ込む。

「がっ! く、くそっ……!」

反撃に出ようとしたときには遅かった。サイタマは手中の超合金によって編まれた鋼線を、大して力を加えているふうでもなく、至極あっさりと──ぶちぶちと千切ってしまった。

「な……ど、どうして……お前……」
「教授さんが“協会の科学力の粋を集めた兵器だから気をつけろ”とか言ってたから、期待してたんだけどな──まあ、生身の普通人に使える程度だし、所詮こんなもんか」

退屈そうにサイタマは言う。

「くっ……! ニーナ! 切り刻め!」

背後のニーナへ向けて、テオドールが吠えた。
はっと我に返って、ニーナはその命令に従おうとした──が、

「……申し訳ありません」

彼女から発せられたのは斬撃ではなく。
今にも泣き出してしまいそうな、弱々しい謝罪だった。

「私はもう──あなたについては、いけません」
「僕を……僕を裏切るのか! ニーナ!」
「私は──私は……私だって! “ヒーロー”なんだ! そんな恐ろしい悪事にこれ以上……加担してたまるものか!」
「……だとよ、黒幕さん。残念だったな」

サイタマが言い終わるより前に、テオドールは素早く体を起こした。前線を退いて久しいが、それでもまだ人外と互角に戦えるレヴェルの身体能力は備えている。サイタマに飛びかかって、その顔面に鉄拳を叩き込もうと振りかぶって、

「いい加減にしろよ」

受け止められた。掴まれた拳はぴくりとも動かず、前に押し出すことも、後ろに引くこともできない。ものすごい力だった。

「世間に怪人が溢れて、一般市民が危険に晒されて──それでお前の“仲間”は喜ぶのか? 一般市民を守るために死んだお前の仲間はそれで浮かばれるのか? お前のその計画は、復讐は、平和のために命を捨てた仲間の頑張りを無駄にしちまう最低の行動なんじゃねーのか?」
「う──ううう……」
「ヒーローが見返り求めてどうすんだよ。お前は褒められたくてヒーローやってたのか? ちやほやされたくて正義の味方になったのか? 違うだろ? 悪いヤツから弱いヤツを守りたくて、それだけで、ずっと戦ってきたんだろ?」

サイタマがテオドールの正拳を拘束したまま、空いた右腕を構えた。

「そろそろ目ェ覚ませよ、ヒーロー!」

振り抜かれた一撃がテオドールの顎にクリーンヒットした。
なんの技巧も凝らされていない、ただのワンパンで、テオドールは気を失った。

その間際。

(ああ──やっと、終わった……)

薄れゆく意識のなかで、温かく安らかな、例えるならば安堵のような解放感に包まれるのをテオドールは感じていた。

ヒーローによって。
かつて同じ存在であった彼もまた──救われたのだった。