Negative Edge Trigger | ナノ
想定外の事態だ。
なにからなにまで想定外だ。
想定外で工程外で規格外で企画外だ。
テオドールは執務室の、己のデスクで頭を抱えていた。喉から手が出るほどに欲していた、熱望していた“成功例”がやっと手中に収まるという歓喜から一気に奈落の底まで突き落とされた気分だった。
「くそっ──なぜ、どうしてこんなタイミングで……!」
臨時ニュースの中継映像に“成功例”が写っているのを確認した。電車での移動中に、怪人の襲撃を受けたのだ。そして交戦に突入した。その後どうなったかのかは、現地に向かっていた報道ヘリが退避してしまったために杳として知れない。怪人の殲滅と被害の調査を兼ねて送り出されたヒーロー部隊が到着するまでには、どれだけ急いでもまだ三十分はかかるだろう。
(今から僕が向かったとしても、間に合わない──怪人とヒズミのどちらが生き残っていたにせよ、両方とも無傷ではないだろうから、先に討伐隊に仕留められて回収されてしまう。ヒズミを“怪人”として処理せよと公示したのが裏目に出てしまう形になったな。白髪女が死ぬのはこの際、構わないが……死体を僕の管轄外に持っていかれるのは、非常にまずい)
組織の上層部に身を置いているとはいえ、全ヒーローを手駒のように動かせるわけではない。彼の息がかかっているのは一部の人間だけであり、そして彼の“正体”を知るものはその中の更にごく少数に限られる。病院占拠事件のときも、実際かなり無理を通してフブキ組を利用しているのだ。極秘兵器である超鋼線革手袋“ウェルテルステン”をも秘密裏に持ち出してしまっているテオドールは、これ以上もう強引な手段に出ることができなくなっている。
(どうする──どうしたらいい? どうしたら現状を打開できる……捨てるしかないのか……いや)
折れかけた心を持ち直し、テオドールは眉間を指で揉んだ。
こんなところで諦めるわけにはいかない。
苦節数年、ようやく“計画”に一縷の光明が見えたのだ。希望が現れたのだ。それをこの程度の障碍に負けてふいにしてしまうわけにはいかない。
これしきの逆境に流されてたまるものか。
「最悪、このポジションを犠牲にすることも覚悟しておかなければならないな……」
テオドールの苦渋の独白は、ニーナの耳にも届いていた。彼女のテオドールを見つめる目には、昨日までとは明らかに違う光が宿っている。この男が黒幕だったのだと──諸悪の根源だったのだと、知ってしまったから。
「護送車を強奪しよう」
度のない眼鏡の位置を直しつつ、テオドールは言った。
「怪人とヒズミの死体をヒーロー協会直属の指定特殊保健所へ移送する装甲車が出るはずだ。それを襲撃して、装甲車ごと死体を強奪しよう。運転手および同乗している警備の人間には、怪人の仲間が仇を討ちに出てきたとかなんとか適当な理由をでっちあげて降りてもらう。抵抗するようなら殺してもいい。この“ウェルテルステン”があれば、たとえ市街地だったとしても、誰の目に留まることもなく暗殺できる」
ポケットにしまいこんでいた黒いレザーのグローブを装着して、テオドールは椅子から立ち上がった。部屋の隅で棒立ちしているニーナに視線を送る。彼女はびくっと体を震わせて、怯えの色濃い瞳でテオドールと相対した。
「ニーナ。君も来てくれ。僕に力を貸してほしい」
「…………テオ様、私は……」
「臆することはないよ、ニーナ。僕がついているからね。そうだ。この一山が終わったら、長期休暇でも取るといい。随分と里帰りしていないんだろう? 部下に慕われる商社マンのお父さんも、脚が悪くて家から出られないお母さんも、久々に娘に会いたいと思っているんじゃないのかな?」
「………………!」
「“仲睦まじい夫婦、怪人に襲われ惨殺”なんて、昼のワイドショーが盛り上がりそうな話題だと思わないかい」
もう──疑問符さえ付属していない。
懐柔しようとも思っていない。
人質による脅迫という、およそ人道を踏み外した行為。
「あ、あなたは……どこまで……」
「悪く思わないでくれ。“僕たちの”理想のためなんだ」
テオドールの顔から笑みが消え、酷薄な本性が現れる。冷徹で残忍で冷淡で残虐で、それでいてどこか寂寥のようなものを感じさせる、いわく言い難い複雑な表情だった。
「早速だが出るとしよう、ニーナ。善は急げ、だ。現地に向かう車の手配を──」
超鋼線グローブを馴染ませようとするかのように、準備運動とでもいうかのように拳を開閉しているテオドールの台詞を遮るように。
──きいいいいいいいん!
と。
耳障りな音が劈いた。
内線放送用のスピーカーから響いたそれは、いわゆるハウリングであった。テオドールとニーナは何事かと硬直しかけて、続いて聞こえてきた声に背筋を凍らせた。
「あー、あー。マイクテスト。本日は晴天なり」
「こ──この声は」
「……あの女ァ……!」
怨敵の声を──聞き間違えるわけがない。
ベルティーユ・Q・ラプラスが、あの“教授”が協会本部にやってきている!
「えー、聞こえているだろうか。聞こえているものとして話を進めよう。テオドール・ファン・ヴァレンタイン氏! 貴殿には幾多の犯罪容疑がかけられている! ……まあ我々も少なからず暴力的な手段に出てしまってはいるけれども! この放送を掛けるにあたって何人かに危害を加えて眠ってもらったりはしたけれども! 正当防衛なので大目に見ていただきたい! 武器を捨てておとなしく投降したまえ!」
そんなことを。
言った。
敵の総本山まで乗り込んできて、憚るどころか自ら矢面に立ってそんなことを言った。
どこまで不遜なのか──不敵なのか。
マイクが慌ただしい物音を拾ったかと思うと、次いで「いたぞ!」「お前なにをして──ぐあっ」「な、なんだこのガキ!」「ぐえっ」「ぎゃあああ」「この子供マシンガン持ってやがる!」「やめて! やめてー!」「死にたくないよぉ! ママー!」「うわあああああ!」という地獄絵図をドラマCD化したみたいな音声が流れて、そして静かになった。
何事もなかったかのように、ベルティーユが演説を再開した。
「貴殿がこれまでに行ってきた悪事のすべては私の知るところである! 地下研究所、病院占拠──“人造怪人量産計画”! 話はすべて聞かせてもらっている! 嘘だと思うならば、デスク脇のコンセントのタップを調べてみるといい!」
調べるまでもないだろう。そこには確かにタップがあった。それは──非合法に盗聴器を仕掛ける場所としては、もっともメジャーな対象である。
ベルティーユにヒズミの“診察”を依頼すべく、ここへ呼び出したときに仕掛けたのだろう。
「……あのアマ。舐めた真似しやがって……!」
「ついでに報告しておこう。ヒズミは無事──ではないが、生きている! こちらで預からせてもらっている! 残念だったな! この悪人め! 正義は必ず勝つのだっ! はーっはっはっは!」
マイクの前に立つと人格が変わるタイプのようだった。
「正義は必ず勝つ、だと……?」
──ふざけやがって。
テオドールはぎりぎりと奥歯を噛みしめて、扉へと向かった。この放送は恐らく本部内の連絡室から流されているものだ。ベルティーユは十中八九そこにいる。ヒズミは彼女サイドが保護しているのだという──願ってもないことだ。彼女を痛めつけて居場所を聞き出してから、殺してやる。
「そうそう、ひとつ言っておくが」
ベルティーユのそらとぼけた声など無視して、テオドールはドアノブに手をかけた。
「今頃きっと貴殿は連絡室にいる私を殺してヒズミを奪還しようと考えていることと思う」
無視できなかった。
テオドールの動きが止まる。
あの女には、予知能力でもあるのか?
「しかしながら、それは無駄だと言っておこう。親切に言っておいてあげよう。なぜなら貴殿は、これから“ヒーロー”の手によって御縄につくことになるからだ」
「……ヒーローだと?」
なにを──なにを、馬鹿なことを。
そんなものがいるわけがないのに。
自身の所属する機関の名前も、その活動目標とするところも忘れて──テオドールは鼻で笑った。
ヒーローなんて、いるわけがないのに。
テオドールは扉を押し開けた。
そこには見覚えのないハゲが立っていた。
「…………!?!?」
虚を突かれた。
心臓が止まりそうになった。
簡単に言うなら──びっくりした。
「あー、お前がテオドール? なの?」
「……誰だ、お前は」
「俺? 俺はサイタマってんだけど。こないだヒーロー試験に受かって」
そういえば、こんな顔のヤツがいたような気はする。しかし確か合格ラインぎりぎりをすり抜けただけの取るに足らないC級ヒーローだったはずだ。
「まさかとは思うが、お前がベルティーユの言っている“ヒーロー”なのか?」
「そうだけど」
「──ははははははははっ! マジかよ!」
テオドールが哄笑する。
腹を抱えて、呵々大笑する。
「お前みたいな底辺が僕をなんとかするってのか? 対怪人対策チームのトップであるこの僕を? はははははははっ! ベルティーユめ、血迷ったか!」
唾を飛ばしながら吠えるテオドールを、サイタマはというと、なんともつまらなさそうに見ていた。
──かくして、ヒーローは。
ステージのラスボスとの最終決戦に挑むのであった。