Negative Edge Trigger | ナノ
「Excusez moi、Monsieur! ここで降ろしてほしい」
後部座席の外国人がまたとんでもないことを言い出した。運転手は肩越しに振り返り、おそるおそるそちらを伺った。防犯用の強化ガラス越しに見た彼女は至って理知的で理性的な、とても大絶賛渋滞中の高速道路のド真ん中で降ろせなどとは言い出しそうもない知識人の風格を醸し出していたのだけれど、しかし先程の申告は残念ながら運転手の聞き間違いではなかった。
「い、いや、お客さん、急いでるのはわかりますけど、こんなところではさすがに……」
「心配は無用だ。迎えが来たのでね」
「は? ……迎え?」
運転手が目を丸くして、目を白黒させて、一体どう対処すべきかと──かつて入社したときに読んだはずのマニュアル・ブックの内容を懸命に反芻していると、
──こんこん、と。
助手席側の窓がノックされた。
「…………!?」
そこにいたのは少年だった。後ろの奇矯な客の連れ──彼女を“教授”と呼んでいた少女と瓜二つの顔をした、まだこの世に生を享けて一桁少々しか経っていないであろう少年だった。
そしてもう一人、なにやらセンスのあまりよろしくない衣装を纏った青年も並んでいる。その頭部には毛髪が一本もない。どこまでも不自然で不安定で不明瞭なコンビだった。
いや、そんなことはどうだっていい。それより──そもそも彼らはどうやって“ここ”へ入ってきたのだ? 這入ってきたのだ? 侵入ってきたのだ? 高架を走るこのフリーウェイに、ただの生身の人間が、どうやって? それに、この長蛇の列を成す無数の車の群れから、たった一台のタクシーを正確に発見できたのはどういう理屈だ? どういう技術だ? どういう現象だ?
今──なにが起こっているんだ?
「長らく世話になった。釣りはいらない」
“教授”が懐から皺のない万札を三枚取り出して、防犯ガラスの隙間から運転手に握らせた。ロックの掛かっているはずのドアをどういうわけだかあっさり開けて、同行人の少女と一緒に道路へ降り立ってしまう。
「ち、ちょっとお客さん! 危ないよ!」
「ご忠告どうもありがとう。心に留めておく。先を急ぐので、失礼するよ」
芝居がかった口調でそう言って、教授はドアを閉めた。彼女がいうところの“迎え”とひとことふたこと交わして、そして──あろうことか──ハゲた頭の青年が、教授を背負って、なんということか、彼の身長の倍以上もある遮音壁を跳躍した。
「うおおおっ!?」
少女と少年も当たり前のようにそれに続いた。ひとっ跳びで数メートルの高さを舞い、壁の向こうに消えていった。
ほんの一瞬の出来事だった。
運転手は呆然とするしかなかった。唖然とするほかなかった。近辺で立ち往生していたドライバーたちもそれを目撃していて、運転手に「今のアレはなんだったんだ!」と窓越しにひしひしと視線で訴えかけてくる。
「……そんなもん、俺が聞きたいよ……」
運転手は弱々しく項垂れて、ハンドルに突っ伏した。
メーターに表示されている数字は教授に支払われた金額よりもずっと少なかった。結果として彼は相当の儲けを手にしたのだが、その精神的な代償は誰にも計り知れなかった。
……沈んでいく。
夕暮れから夜に移り変わる空のような、赤と黒のグラデーションが視界に広がっている。ヒズミの背中から流れる血液が水に混じって、長い白髪はなめらかな絹のように揺らめいて、その美しくすらある色合いに貢献していた。
沈んでいく。
無数の鉄屑がヒズミを追い抜いて川底へと降っていった。どこか幻想的な光景であった。人類がいまだ到達しえない宇宙の果ては、ひょっとしたらこんな感じなのかもしれない。
沈んでいく。
罪のない一般人を守るために文字通り命懸けで戦って、そして勝った。賭したモノは今こうして失いつつあるけれど──それも悪くない、とヒズミは朦朧とする意識のなかで思う。
逃げなかった。
家族から、学校から、社会から、世界から逃げて。
自分を助けるために尽力してくれていた“教授”やその子供たちの住処がテロリストに襲撃されるという危機から逃げて。
自分を怪人だと罵り、始末しようとした男から逃げて。
自分を庇おうと決死の覚悟を極めてくれたヒーローたちからさえも逃げてきた。
そんな臆病者が──今度は、逃げなかった。
大金星まで挙げたのだ。
(それだけで、なんか、もういいや)
やればできるんじゃないか。
それだけで。
もう──満足だった。
この世に思い残すことなど皆無だった。
(……いや)
そんなものが、未練が、もしもあるとしたら。
自分に戦えと発破をかけた、背中を押してくれたサイボーグの青年のことか。
彼は復讐のために血と骨を捨てたのだという。怨嗟のために自ら進んで肉体を改造し、修羅の道を選んだのだという。仇討のために未来を捧げたのだという。
それはひどく悲しくて、不憫で、切ない生き方だった。それでいて清く正しく凛とした生き様だった。
そんな彼に──ひとこと。
頑張れ、とか。
無理はしないように、とか。
代替が利くとはいえ自分の体なのだから大事にしろ、とか。
それくらいのことは伝えたかったな、と。
思った。
──戦ったよ。
──勝ったよ。
そうやって胸を張ってやりたかったな、とも。
思った。
沈んでいく。
沈んでいく。
沈んでいく。
なんとか繋いでいた正気の糸が切れかけて。
生命までも暗いところへ沈みかけて。
──ものすごい勢いで体を引き上げられた。
全身にまとわりついていた重さが消滅した。代わりに硬いものが自分を包み込んでいる感覚があった。乱高下を繰り返すジェットコースターに乗っているときのような浮遊感が数十秒ほど続いて、地面にそっと寝かされるのがわかった。
誰かが自分の名前を呼んでいる。
叫ぶように。縋りつくように。
どこかで聞いたことのある声だった。
掌のような形をした金属質のなにかに、濡れて顔に貼りついた前髪を払われた。そこへだんだんと近づいてくる気配。ヒズミは状況を確認しようと薄く目を開けた。
鼻先が触れ合いそうな至近距離にジェノスの顔があった。
「…………へぁあっ!?」
変な声が出た。
いやまあ常識的に考えて彼はきっと人工呼吸的なアレを試みようとしていただけであって、緊急救命措置を実行しようとしていたソレであって、決して唇と唇がちゅっちゅとランデブーするやましい行為に及ぼうとしていたわけではないのは自明の理であったけれど。
それでも。
いささか刺激の強すぎる目覚めだった。
「ヒズミ! よかった……意識があるのか。見えるか? 俺がわかるか? ジェノスだ、わかるか?」
ヒズミの混乱など構わず、ジェノスは真剣に彼女の安否を慮っている。一瞬でも冗句でもいかがわしい疑念を持ってしまった自分はもしかしてひどく不純で汚れきった人間なのではないかとさえ思わせる剣幕だった。
「いっそ殺してくれ…………」
「は? なんだ? もう一度言ってくれ」
ヒズミの微かな呟きはジェノスには届かなかったらしい。
現状から推察するに、ここは川のほとりのようだった。刈られた形跡のある雑草がちくちくと腕や背中や尻を刺している。腕や尻はともかくとして、背中は痛い。ものすごく痛い。多分まだ出血も止まっていない。しかし自力で起き上がるだけの余力はもう残っていなかった。それに──たとえ起き上がれたところで、どのみち痛いのだろう。
「……よく見つけたなあ」
「水面が一ヶ所だけ、血で赤くなっていたのが見えた」
「はあん。なるほどね……」
目印があったわけだ。
怪我の功名とでもいうべきか。
彼の機械のボディはずぶ濡れで、びしょ濡れで、あちこちから水が滴っていた。防水処理とか大丈夫なのだろうか。ショートして爆発とかしないだろうか。
「……水浸しだけど、大丈夫なの?」
「この程度ならば問題ない。いくつか浸水によって正常な機能を失ったパーツはあるが、交換できる」
「……………………」
──“代替が利くとはいえ”。
「自分の体なんだから、大事にしなよ」
「……お前に言われたくはない」
「はは……」
力なく笑うヒズミの右手首をジェノスが掴んだ。その薬指にあるべきものがなくなっているのを見て、険しく眉を寄せる。
「指環はどうしたんだ、ヒズミ」
「あー、さっき外した」
「今どこにある?」
「たぶん……その辺に浮いてるんじゃねーかな」
ヒズミが横目に、側を流れる一級河川をちらりと見た。この中からちっぽけな指環ひとつ探し出せというのは、砂場から一粒の砂金を掘り当てろというのと変わりない無理難題だった。
「その髪は、指環を外した影響か」
「そうだと思うよ。わかんねーけど」
「……限界を超えた放電による細胞の壊死は見られないな。皮膚に焼け爛れている箇所もないようだが……」
呟きながら、ジェノスはヒズミの肌を確かめるように触れて、撫で回して、眺める。水を吸ってぴったりと体にくっついているシャツを胸までたくし上げて脱がそうとして、
「ちょっ、ま、それはっ!」
「…………!!」
我に返ったらしかった。
「す、すまない、配慮が足りなかったいやしかし緊急事態だからこれは当然の処置であって必要な行動であって決してそのセクシュアルな意味合いのあるものではないから事前確認を怠ったのは悪かったが決して俺がそのお前に恥をかかせようとかそう思っていたのではないのであってそれは、……その……、………………すまない」
怒濤の勢いでまくしたてていたジェノスの言い分はあえなく萎れた。ひたすらストイックで、雑念とは無縁のように思えた彼のそんな姿を見たのは初めてだったので──ヒズミは吹き出してしまう。
「はは、かわいいなあ」
「か……っ」
「かわいい男の子ですなあ」
「……こんな状況でからかわないでくれ」
「いいじゃん、嘘じゃねーし。かわいいし、かっこいいよ」
自分のこんなしみったれた命を。
二度に亘って救ってくれた。
彼はヒーローなのだ。
ヒズミにとって、紛れもなく。歪みもなく。
かっこいい──正義の味方なのだ。
「守ると決めたんだ」
「え?」
「お前は俺が守ると決めたんだ。もうお前が傷つかなくていいように、たとえ世界中から“怪人”だと恐れられて、疎外されて、迫害されて、孤独になっても──ずっと側にいて、俺が守ると決めたんだ」
真っすぐに、ヒズミと視線を合わせて。
ジェノスは決意を口にする。
「俺だけは、今後なにがあっても、お前の味方だ」
「……………………」
「俺が守ってみせる。だから、もうなにも怖がらなくていい。逃げなくていい。俺が絶対にお前をひとりにしないから、これからはお前の思うように、生きていい」
「…………なんか、それ」
「? なんだ」
「プロポーズみたい」
ジェノスの頭部──顔のあたりから、じゅっ、という音がした。そこに付着していた水分が蒸気となって空気中に溶けたのだ。急激に上昇した表面の熱によって。
「え? なに今の? ひょっとして照れた? 照れたの? ねえ今のって照れたの?」
「──ッからかうなと言っただろうが! なんなんだお前は! 神妙になれない病気か! 真剣になったら死ぬ症候群か! それとも馬鹿なのか!」
「さあ答えはどれでしょうか! 正解者には豪華海外旅行チケットをプレゼント! 応募の宛先は番組の最後で!」
「よしわかった! 馬鹿だ! お前は馬鹿だ!」
どうしようもない馬鹿だ──と。
ジェノスはしゅうしゅう湯気を立てながら声を荒げて。
ヒズミは痛む古傷も忘れて笑った。
心から笑った。
「あははは、あー、おっかしいの……はは──は──ぁあ」
不意に、語尾が震えた。
「あ──あぁ……、…………う、あ」
そしてゆるやかに変移する。
笑い声は。
細い泣き声へと。
「ああ、あ……うああああ……」
怖かった。
死ぬかと思った。
ずたずたのばらばらのぐちゃぐちゃに殺されるかと思った。
怖かった。
どうしようもなく──怖かった。
なにもかもが怖かったのだ。
ジェノスはなにも言わず、横たわるヒズミに覆い被さるようにして、その頭に腕を回した。ぎゅっと力を込める。人肌の温もりなどはなく、心安らぐ柔らかさもないその機械仕掛けの胸に抱かれて、ヒズミは生まれたばかりの赤子のように声をあげて泣きじゃくり続けた。