Negative Edge Trigger | ナノ





最後尾車両のドアは、果たして四回目のキックで破られた。先陣を切っていた金髪の男はまず自ら線路に降り立って安全を確かめてから、命の危機に晒されて憔悴しきっている乗客たちに、そこから順番に外に出て逃げるよう指示を出した。
ヒズミの言った通りに。
いま現在も自分たちのために戦っているであろう、燃え尽きて灰のように白い髪の自称“怪人”の頼んだ通りに。

年寄りや幼い子供に手を貸しながら、男は全員を車外に避難させることに成功した。金網状の足場のはるか下に、広大で雄大な河川が流れているのが見えた。この高さから落ちたらひとたまりもないだろう。気を引き締め直して、男は鉄橋を渡って陸地へ進むことを大声で告げた。異論を唱える者はいなかった。大勢の人間が行列を作って歩くさまはまるで遠足のようでもあったけれど、彼らのあいだに浮かれた空気などは微塵もない。どこまでも重く沈んだ、苦しい雰囲気だった。

列の先頭を担っていた男が数十メートルほど歩を進めたところで、にわかに後続が騒がしくなった。振り返って様子を確認しようとして──視線が、ぎしっ、と中空に釘づけにされた。

「な……なんだ、ありゃあ……!?」

そこには。
なんと車両があった。

地球という惑星における絶対的な重力法則を無視して、不可視の糸で吊られているかのように、先頭車両が空に固定されていた。しかも地面に対して垂直に──傾いていた。
乗客たちは自分たちが避難中であるということも忘れ、立ち止まってその有り得ない光景に目を奪われていた。なにが起きているのかと揃って狼狽し、それに比例してどよめきが広がっていくが、懇切丁寧に状況を説明してくれる者など──この状況下には、もちろん存在しえなかった。



「ぐ……っ、てめえ……」

大蜘蛛が呻いて、複眼でヒズミを睨みつける。敵意というには生温い、悪意というには物足りない、それは純然たる殺気だった。それでもヒズミは眉ひとつ動かさず、大蜘蛛を見据え返している──と思いきや、彼女はあっさりと方向転換した。ずたずたに切り裂かれた七人掛けの椅子に足をかけて、割れた窓のフレームを潜って外に出ていった。

「! 待ちやがれ!」

大蜘蛛がヒズミを追いかけようとしたが、車両が大きく傾いているために、体勢を整えるまでに時間を要した。じたばたと足掻いて、やっと行動を開始したときにはヒズミの姿は大蜘蛛の視界から消えていた。ドアを周辺の壁ごと抉り取って車外へよじ登り、ヒズミを探そうとして、その必要はなかった。彼女は屋根の上にいた。ほとんど縦になっている車両の、その屋根に──転落することも滑落することもなく、地面と平行の角度で、まっすぐに立っていた。

「逃げなくてよかったのか?」
「え? なに? 逃がしてくれるの?」
「逃がすわけねーだろうが」
「ですよね」

剽軽に肩をすくめるヒズミの右手には、なにかが握られていた。それは掌に収まるほどのサイズで、白と緑に彩られたシンプルなデザインの四角い箱──煙草のパッケージだった。そこから一本を抜き取って、唇にくわえる。口元から手が離れたときには、どういう仕掛けなのか、既に火が灯っていた。

「いや、ほら、車内禁煙だからさ」
「最後の一服ってわけか?」
「そうならないように、頑張るつもりだけど」
「ああ? まさかお前、あんなちゃっちい攻撃で俺を“やれる”とか、まだ思ってやがんのか?」

嘲りを込めた口振りで、大蜘蛛は笑う。

「さすがに思ってねーよ。そこまで楽観的じゃない」
「だったらどうするんだよ? 都合よくヒーローが助けに来てくれるとでも?」
「……だったら最高なんだけどな」

誰かが手を差し伸べてくれれば。
守ろうと──してくれれば。
これまでのように。
誰かが自分を庇って立ち向かってくれれば。
ひとりで逃げ出すこともできるけれど。

「でもまあ、そうも言ってられねーだろ。そろそろ自分のことくらいは自分でなんとかできるようにならねーとさ。いい歳だし」

死んでいくためではなく。
生きていく──ためには。

「安心しろよ。ここでお前は死ぬんだ」
「うるせえ。誰が死ぬかよ、こんなところで」

そう断言して、ヒズミは右手の薬指に填めていた指環を抜き取った。黒い石の装飾がついているだけの、なんの変哲もないシルバーリングを外して、適当に放り投げた。
おざなりな放物線を描いて指環は落下していった。濁った川面に紛れて、すぐに見えなくなった。

ちりっ、と、空気が焼けるような微かな音。

「………………?」

これといってヒズミに変化が起きたわけではないが、それでも大蜘蛛はなにかを察知したようだった。野生動物の勘、というものだろうか──やや身を引いて、身構えるようにした。

当のヒズミは相変わらずぼけっとした、眠たそうな顔で、なぜか足元のパンタグラフを折った。そして感触を確かめるように、何度か上下に振ってみせる。手頃な木の棒を拾った下校途中の小学生みたいな仕種だった。

「初めて持ったけど、これ意外と重いんだな」

そんなことを呟きながら。
その切っ先を──すいっ、と空へ向ける。

パンタグラフから放たれた白い光が大蜘蛛の視界を塗り潰した。得体の知れない“攻撃”の前兆か、と大蜘蛛は防御に徹すべく巨躯を低くしたが、衝撃は訪れなかった。やがてフラッシュは徐々に収まって、世界が元通りになる──ただひとつ、眼前の自称“怪人”の女を除いて。

白い蓬髪が風に棚引いていた。

項が見えるほど短く刈り込まれていたはずのヒズミの頭髪が、一瞬にして膝のあたりまで伸びていた。別人と入れ替わりでもしたのかと、有り得ない考えが過ぎるほどの変貌だった。顔の半分以上を覆い隠している前髪の隙間から射抜いてくる青い双眸だけが、彼女が彼女であることの証明を果たしていた。雄弁に物語っていた。

「……てめえ、今、なにした……?」
「ちょっと完全体になってみた」
「なんだと……? それはどういう意味だ」
「ほら、よくあるだろ、変身するとなぜか髪が伸びるアニメ。プリキュアとかセーラームーンとか……いや、セーラームーンは伸びないか。うさぎちゃんもマーズもヴィーナスも最初からロングだったな。私はサターンちゃん推しだったけど。ていうか二十歳すぎといて例えがプリキュアとかセーラームーンってのは痛いな。かなりおこがましすぎたな。……うわ、なんか急に恥ずかしくなってきた」

ぶつぶつと脈絡のない話を展開しながら、ヒズミはパンタグラフの先端を今度は大蜘蛛へ突きつけた。

「……? なんの真似だ」
「ホームラン予告」
「は──」

大蜘蛛が聞き返そうとしたそのとき、ふっ、と影が落ちた。反射的に視線をそちらに向けて──ぎょっとした。

後続の車両がすべて浮かび上がっていた。

スパークを迸らせながら、まるで衛星のようにヒズミと大蜘蛛の周りを囲んでいた。その総重量の単位はキログラムではなくトンの領域だろう。圧倒的な質量を持つ金属の塊が、強力な電磁力によって浮遊している。これまでとは比較すべくもない、比類すべくもない、常識の概念を超越した出力だった。

変身。
“完全体”──とは。

「こんな……こんな馬鹿げたことが……」
「あるからこその“怪人”なんだろうな」

そう言ったヒズミは、どこか悲しそうで。
寂しそうだった。

目にも留まらぬ速度で発射された高圧電流の矢が、大蜘蛛の腹部を貫いて風穴を空ける。一縷の隙さえ許さずに、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、際限なく増えていく。土色の化け物が抵抗すらできずにみるみる蜂の巣にされていく。

もうこの対決の優劣は──勝者と敗者は。
しかと確定してしまっていた。
確立してしまっていた。

「そんじゃ、まあ、来世で幸せになってくれ」

大した感慨もなさげにそう言って、ヒズミは歪な形をしたバットを両手持ちに切り替え、構え、そしてランナーを一掃しようと挑む四番打者さながらに──フルスイングした。

その軌道に乗って、鋼鉄の衛星たちが猛烈な勢いで動いた。ぎぎぎっ、と思わず耳を塞ぎたくなる軋んだ悲鳴を上げながら旋回して、パンタグラフを媒体として放出される電磁力に導かれ、風通しのよくなった大蜘蛛の横っ面に突進した。在来線には決して出せないスピードで化け物を撥ね飛ばし、その衝撃に耐えきれずに車体はばらばらに瓦解した。

クリティカルに轢かれた大蜘蛛は砲弾のように一直線にすっ飛ばされて、物理的な原理に則って空中で減速して、その軌跡は降下へと変化した。悠然と揺蕩っていた川面に大きな飛沫が上がるのを、ヒズミはしっかりと目撃した。

「……内野ゴロだな」

苦笑を漏らしながらそうひとりごちて。
ヒズミは──ゆっくりと、その場に頽れた。

それは糸が切れた操り人形のようだった。宙を舞っていた車両が次々と落下していく。ヒズミが立っていた車両も例外ではなかった。地表に吸い込まれるように落ちて、落ちて、鉄橋の欄干に激突して真っ二つに圧し折れた。ヒズミの矮躯はそれこそ虫のように振り落とされて、きりきりと振り回されて、

(……次回作に、ご期待ください)

混濁した川面にもうひとつ、小さな波紋が広がって、消えた。