Negative Edge Trigger | ナノ





背中が痛みを訴えている。
血に濡れたシャツが張りついて気持ちが悪かった。ヒズミは顔色ひとつとして変えないように努めながら、眼前に岩のように聳える大蜘蛛を青色に輝く瞳で睨みつけた。

しかし強がっていても、体は限界だった。大蜘蛛の脚の一振りを躱すことができず、まともに食らってしまう。腹部にめりこんだ一撃によってヒズミの痩躯は宙を舞い、恐怖のあまり身動きのとれない乗客たちの足元に転がされた。口の端から一筋、赤いものが伝った。

「ね、ねーちゃん……」

ヒーロー志望だと名乗っていた金髪の若い男が、人集りを掻き分けて前に出てきた。顔中に冷や汗を浮かべ、苦しそうに横っ腹を押さえてはいるが、自分の足で立って歩いている。

「……あー、お兄さん。無事だったの」
「俺のことはいい。あんたもう戦える状態じゃないだろ。さっき蹲ってたのは、その“古傷”のせいなんだろ……?」
「ご明察。山田くんから座布団一枚もらっといて」
「ジョークかましてる場合かよ……。ここは俺が引きつけるから、そのあいだに逃げ──」
「それは私の仕事だ。お兄さんは乗客さんを逃がして」

手をついて体を無理矢理に起こし、ヒズミは大蜘蛛に聞こえないよう声をひそめて告げる。

「一番うしろの車両まで全員を誘導して、そこからドア破るなり窓を割るなりして外に出て、線路づたいに逃げてほしい。この状況で電車なんて動いてないだろうから轢かれることはないと思う。全力で足止めするけど、たぶんそう長い時間は稼げない」
「だ、だけどよ……」

ヒズミの口振りは飄々としているが、顔色は蒼白で、とても生気が感じられない。満身創痍の彼女に対し、彼は反論を試みようとして──結局なにも有効な代案を思いつかなかったようで、悔しそうに歯を食いしばった。

「じゃあ、よろしく頼んだよ。お兄さん」
「……ああ。任せとけ」

ヒズミの行動は素早かった。一瞬で全身の神経を末端まで活性化。次の刹那には、大蜘蛛の顔面に渾身の右ストレートが炸裂していた。その隙を突いて、男は「生き残りたければ自分へついてこい」というような内容のことを格好よく叫んで走り出した。乗客たちは戸惑って、なかにはヒズミを置いて逃走するのに躊躇を見せる者も少なくなかったが、やがて彼らも先導について踵を返し、脱兎のごとく半壊状態の車両をあとにした。

「! てめえら、逃がすかよ!」

体勢を整えようと蠢いた大蜘蛛の脚の一本を、ヒズミが掴んだ。生成した電力を掌に集約する。集積する──広範囲に拡散された電撃では怪人にダメージを負わせることができなかったが、一点のみに集中させた電気エネルギーの熱量は桁違いで、まるでチョコレートのように大蜘蛛の脚を熔かして焼き切った。大蜘蛛の雄叫びが車体を震わせる。

「ああああああああああッ! て、めえ、この野郎ォ!」

大蜘蛛が噛みつこうとしたのを咄嗟に屈んで避けて、ヒズミはその顎を真下から蹴り上げた。彼女の何倍もの体積の化け物が天井まで浮き上がるほどの威力だった。そこにまた電磁砲を叩き込む──が、“古傷”のダメージのためか、先程の一発よりも電圧がかなり弱い。今度は大蜘蛛の皮膚を炭化させることすらできなかった。

(……やっぱり、だめだな)

内心で舌打ちして、ヒズミは一転、大蜘蛛に背中を向けて走り出した。驚くほどの変わり身の早さだった。がむしゃらな逃走によって、疾走によって、ヒズミの太腿や脹脛の筋肉からぷちぷちとなにかが切れる嫌な音がした。それに構わず、彼女は飛ぶように駆け抜ける──前方の車両へと。

「待ちやがれえええッ!」

怒号とともに大蜘蛛が追ってきた。ヒズミは肩越しにそれを確認して、

(──よし、こっち来たな)

と安堵していた。怒りの矛先が自分ではなく脱出のために別れた乗客たちへ向けられたらどうしようかと心配だったのだが、思ったよりも短絡だったようだ。嬉しい誤算──と言っていいものかどうかは微妙なところだったが、ともあれ、これであの化け物の狙いはヒズミのみに絞られた。

もはや意味を成していない罵倒の絶叫を背中に聞きながら、ヒズミは走った。いくつもの車両を通過して、そのどれもが破壊しつくされていた。もう二度と線路を走ることはできないだろう。割られた窓、千切り落とされた吊り革、引っ繰り返った座席。惨憺たる有様ではあったが──しかし、それだけだった。散乱しているのはかつて電車の一部として構成されていた無機物のパーツのみで、生きているもの、さらに言うなれば“生きていた”ものの姿は見えなかった。幸いなことに、犠牲者は出ていないようだ──今のところは。

背後から大蜘蛛の袈裟斬りが唸りを上げて飛来するのを見もせずに回避した。鋭い爪は車体の上半分をいともあっさり切り取ってしまう。果たして閉塞的だった車両は解放感あふれるオープン・テラスへと進化を遂げた。

「…………ッ!」

その拍子にバランスを崩して、ヒズミの体が床を滑った。背中から鮮血が搾り出され、激痛が動きを鈍らせる──が、ヒズミは勢いを殺さぬまま受け身を取るように転がって、再びダッシュに移る。
しかし、もう──限界が近かった。

「くっそ……っ」

くるっ、とジルバめいたステップを踏むように振り返り、槍を模した電気の塊を大蜘蛛に撃ち込んだが、大したダメージは与えられていないようだった。もうこの“怪人”に勝てる見込みは──倒せる可能性はどこにもなかった。

(……ああ、やっぱり強いわ、こいつ)

それでもヒズミの目は絶望に揺らいでなどいなかった。走って、走って、走り続けて、やがて彼女は先頭車両に辿りついた。ここに来るまで死体のひとつとも出くわさなかったことを誰にともなく感謝しながら、闇雲に動かしていた脚を止めた。大蜘蛛も追跡を停止して、一人と一匹は数メートルの距離を置いて二度目の対峙に火花を散らす。ゆらりゆらりと陽炎のように体を揺らす大蜘蛛は、獲物を追い詰めた高揚感に酔いしれているようだった。

「あーあ。行き止まりだな、お嬢さん」
「お嬢さんって歳でもねーよ」
「まあ、確かに俺よりかは年上だろうなあ。人間ってのは無駄に長生きしやがる。不愉快な生き物だぜ」
「そう毛嫌いしないでくれねーかな。悪いヤツばっかりじゃねーんだよ」
「お前を骨まで食ってから考えてやるよ」

交渉決裂だった。
期待していたわけではなかったけれど、本気で絆そうとしたわけではなかったけれど──ヒズミはほんの少しだけ落胆した。

「……まあ、いいか」
「なんだ? やっと諦めがついたのか? 安心しろよ。寂しくねーように、さっき逃げたやつら全員まとめて同じところに送ってやるからよ。仲良く地獄に落ちて、舌を抜かれて鞭で打たれて釜で茹でられろ」
「はっ、……ぞっとしねーな」
「それが傲慢な人間どもへの当然の報いだ」
「ひでーこと言いやがる……まあ、立場が変われば意見も変わるわな。私がとやかく言えることじゃない。言えることじゃないけど、黙ってそれに従えるほどいい子にはなれねーよ」

ヒズミの虹彩がひときわ強く、青く光ったかと思うと──大蜘蛛の脚がふわりと地を離れ、かつて壁であった箇所に、今はめくれあがった瓦礫の山となっている場所に叩きつけられた。

「!? ……か……っ」

なにが起きたのかわからなかった。攻撃を加えられた感触はなかった。現にヒズミはどこか哀愁の漂う表情で、直立不動のままである。体勢を整えようとするが、うまくいかない。見えない力によって押されたような──抑えこまれているような──そう、まるで重力の法則によって、落とされたような──

(“落とされた”……!?)

そこでやっと大蜘蛛は異変に気がついた。ヒズミがジーンズのポケットに手を突っ込んだ無防備な姿勢で、なんと宙に浮いていたのだ。自分の真上の、なにもないはずの空中に、確然と立っている。

(まさか──電磁力を操って、車体を──)

大蜘蛛がにわかに焦りだしたのを知ってか知らずか、ヒズミはのんびりとした面持ちで足元の化け物を見下ろしている。笑っているわけでもなく、怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく、楽しんでいるわけでもなく、ただ空っぽの眼差しで、己を八つ裂きにせんと迫る“怪人”を見下ろしている。

ただただ──青く弾ける双眸が、そこにあった。