Negative Edge Trigger | ナノ





ヒズミと大蜘蛛との距離は三メートルほど。対峙したまま動かず、膠着状態が続いていた。

「……なんだ、お前は? 普通の人間じゃねーな」
「うん。こないだ“怪人”になった」
「“怪人”だと?」

ヒズミの言葉に、大蜘蛛は反応を見せた。
疑っているようだったが、ヒズミの右腕を電流の渦が取り巻きだしたのを目の当たりにして、その表情──の変化までは読み取れなかったが、確実にその態度は一変した。空気が引き絞られた弓のようにきりきりと張りつめて、喉を締め上げられるような感覚さえヒズミは覚えた。

「それなら、俺とお前は同類だな」
「…………同類」
「実は俺も“こうなった”のは、つい最近のことなんだよ。人間への恨み辛みが積もり積もって、悪意と殺意が実を結んで──この体を手に入れた」
「そりゃあ、どうもご苦労さん」

ヒズミの軽口に気分を害したのか、大蜘蛛はその長い脚を振り回した。窓のフレームが派手な音を立てて折れ、ヒズミの背後から甲高い悲鳴の合奏が聞こえた。

「人間どもは──俺の“家”を壊した! そして兄弟を殺した! なぜだ! 俺たちがお前ら人間になにをしたって言うんだ! 俺たちがお前ら人間に危害を加えるようなことをしたか!」

在来種の蜘蛛は基本的に益虫である、といつか書物で読んだことがあった。人体に影響を及ぼすような毒を持つものは滅多におらず、衛生面において有害な生物を捕食し、清潔を保つために殺菌行動をする種もあるという。基本的には臆病なので、好き好んで噛みつきにくるようなこともない。

「それをお前らは“ただなんとなく気持ち悪いから”なんて身勝手な理由で──俺たちを殺すんだ。汚いものを見るような目で! ただ生きていただけの俺たちを! お前らが殺したんだ!」
「それで、復讐しようとしてるわけか」
「その通りさ。お前らも、俺の兄弟たちと同じように殺してやる。踏み潰して紙にくるんで捨ててやる。俺が兄弟たちの無念を晴らす。あいつらに代わって、お前ら人間どもを駆除してやる。俺は兄弟たちの──いや、他のすべての同胞たちの怒りの象徴だ。アングリー・スパイダーだ!」
「マッキーかよ」

今日も腹を減らして、一匹の蜘蛛が……。
なんて歌っている場合ではない。

「シリアスな場面にそういうチープなパロディ挟むのやめろよ。駄作になるから」
「ふん──お前も“怪人”になったのには、なんか理由があるんじゃないのか? 俺みたいに、人間どもに対して黒い気持ちがあるんじゃないのか?」

絡むように言葉を投げつけてくる大蜘蛛を、ヒズミは冷めた眼差しで見つめ返す。重力に逆らって靡き、火花を飛び散らせる前髪を指先でいじりながら、深く溜息をついた。

「……まあ、ないわけじゃないな」

怖かった。
攻撃されるのが。
迫害されるのが。
疎外されるのが。
嫌悪されるのが。

人間すべてが怖かった。
それは──自分も含めて。

他人を知らぬうちに傷つけながら、貶めながら、それでものうのうと生きている自分も含めて。
怖くて、恐ろしくて。
死んでしまえばいいのに、と。
呪いながら、それでも生きていた。

「……でも」

俺はお前の味方だ──と。
背中を支えてくれたひとがいた。

それだけで。

「生きていける気が、しちゃったんだよな」

彼は“ヒーロー”なのだという。
強きを挫き、弱きを守る、ヒーローなのだという。

命を懸けて悪と戦うその生き様を──

「かっこいいって、思っちゃったんだよなあ……」

その彼は、自分に──“戦え”と言った。
逃げてばかりで、誰とも、なにとも真正面から向き合うことをしなかった自分に、唯一はじめて、戦えと言った。

今のお前なら戦うこともできる、と。

「まったく──簡単に言ってくれたもんだよ」

ヒズミの右腕で蜷局を巻いていた電撃が膨れ上がった。高圧電流が生み出すスパークの閃光が車内を白く塗り潰した。落雷さながらの電気エネルギーが、まるでサイエンス・フィクション映画に出てくるレーザービームのように、一直線に放たれる。

高出力の電磁砲が、大蜘蛛の巨躯を貫いた。

攻撃は一瞬だったが、その皮膚は余すところなく真っ黒に焦げていた。節々から煙を立ち上らせ、断末魔もなく崩れ落ちる。そして動かなくなった。

超常的な出来事に、戦々恐々としていた乗客たちはしんと静まり返ってしまっていたが──やがて彼らもだんだん我に返りはじめた。危機は去ったのだということを認識して、その感動はあっという間に伝播していった。わあっ、と大歓声が沸き起こる。

「た……助かった! 助かったんだ!」
「やった! やったあああ!」
「ねーちゃん、あんたすげーよ! すげーヤツだよ!」

生え際の後退した五十代くらいの男が駆け寄ってきて、ヒズミの肩をがくがくと揺すった。それに他の乗客も続いて、ヒズミはあれよあれよと取り囲まれてしまう。このまま胴上げでもされるんじゃないかという勢いだった。最初に標的にされた男の子は尊敬と憧憬のこもった目でヒズミを見上げていて、輪の隅にいた高齢のご婦人に至っては両手を擦り合わせて拝んでいる。

「あんた最高だ! ヒーローだよ!」
「いえ、私は──通りすがりの“怪人”ですよ」
「馬鹿を言え、怪人なもんか! あんたは俺たちを救ってくれた! ヒーローだ! 怪人なんかじゃねえ! なんだ、誰かに怪人呼ばわりでもされたのか? そいつ連れてこい! 俺らが言ってやる! このねーちゃんは一般市民を守ったヒーローだってな! なあ!」

興奮しきった様子の男の台詞に、全員が賛同した。ヒズミが苦笑を洩らして──がくっ、と膝が折れた。その場に跪いてしまう。

「お、おいねーちゃん、大丈夫か」
「そういえば、体調があまりよくなさそうで──ひっ」

女子高生──果敢にペットボトルの遠投を試みたあの少女が、ヒズミの背中を見て短い悲鳴を上げた。そこから夥しい量の血が噴き出て、衣服を赤く染め上げていた。他の乗客たちもすぐそれに気づいて、揃って目の色を変える。

「な……あいつか!? あの化け物にやられたのか!?」
「いえ、ちょっと、……古傷が」
「救急車だ! は、早く病院に連れていくんだ!」

騒然としている取り巻きたちを押し退けて、ヒズミはふらふらと立ち上がった。差し伸べられた手を取ることもなく自力で直立して、前髪を掻き上げつつ──大蜘蛛を見据える。

「ど、どうしたんだねーちゃん。立って大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃねーけど、まったくもって大丈夫じゃねーけど──あちらさんの方が、もっと大丈夫じゃねーらしい」

ヒズミの言葉に、乗客たちは一斉に反応した。いまだ全身から煙を吹いている大蜘蛛の、その炭と化した外殻に、罅が入った。

ぱき、ぱきっ、という音を立てて、罅は広がっていく。亀裂が大蜘蛛の全身を包み込んで、そして砕けて割れた。そこから綺麗な土色の、傷一つない真新しい体が這い出てきた。
そう、それはまるで──脱皮。

「……ははァ、結構キたぜ、クソアマ」

体液でぬめる八本の脚が蠢いて、脱ぎ捨てたばかりの皮を蹴散らした。

「アンコールだ。もっかい痺れさせてくれよ、なあ──“ヒーロー”さんよォ!」

再度、澱んで濁った絶望が立ちこめはじめる。
髪に触れていた手を下ろして、ヒズミは目を閉じた。深呼吸をして、ゆっくりと瞼を開く。
そこには。

「上等だよ。ダイブもモッシュも大歓迎だ」

稲妻のように青く光る瞳が、ふたつ。

「かかってきやがれ、クソ虫野郎」