Negative Edge Trigger | ナノ





「……赤いニット帽を被った若い女の人? ええ、確かに来ましたよ」

ヒズミが利用していたというファミリーレストランの店内で、ウェイトレスは逡巡すらせず頷いた。ジェノスとサイタマは顔を見合わせる。

「その、なんというか……季節外れな格好でしたので、記憶に残っています。確かドリンクバーと軽食を頼まれていました」
「変わった様子はなかったか?」
「いえ、別段、それといって……あ、どこかに電話されているようでした。あと、その方が帰られたあとに席でこれを見つけました。その方の持ち物かどうかはわかりませんが……」

彼女が制服のポケットから取り出したのは、鯖折りされて息絶えた携帯電話の残骸だった。間違いなくヒズミのものだ。ジェノスがそれを引き取りたいと申し出ると、ウェイトレスの彼女は二つ返事で了承した。ヒーローという肩書きのついている相手であるせいか、警戒心は薄いようだった。名簿に登録しておいてよかった、とジェノスはこのとき初めてそう実感した。

「その女性がどこへ行ったか、わかるか?」
「さすがにそこまでは……監視カメラも店内にしかありませんので……」

ウェイトレスがちらちらと店の奥を窺うような態度をとりはじめたので、ジェノスもそちらに目を遣った。他のスタッフとは色の違う制服を着た男性がジェノスたちを懐疑的な眼差しでじっと見つめている。恐らく店長か、もしくは責任者の立場に位置する人物だろう。揉め事を起こされるのではないかと気が気でないようだった。一般の客もそこそこ入っているし、これ以上ここでの聞き込みは無理かと判断して店を出ようとしたそのとき、待合スペースの壁に掲げられた液晶テレビから臨時ニュースが流れだした。

「……番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします。現在H市を走行中の鉄道が怪人の襲撃を受け、緊急停止した模様です。怪我人などの情報はまだ入っていません。ヒーロー協会から討伐部隊が結成され、現場に向かっているとのことです。ここからは中継でお送りします」

報道フロアから、屋外の映像に切り替わった。ヘリコプターによって撮影しているのであろう、上空からの俯瞰の画面だった。幅の広い河川を横切る鉄橋のほぼ中心あたりに、八両編成の電車が停まっている。その車体は遠く離れていてもわかるほどあちこちが破壊されていて、もうもうと黒煙を立ち上らせている箇所さえあった。

「ご覧のように、電車は既に怪人によってボロボロにされています! 一体なにが起きているのかここからではわかりませんが、視聴者からの目撃情報によると巨大な蜘蛛の形状をした怪人がいきなり襲ってきたとのことで──ああっ!?」

実況していたアナウンサーが突然、大きな声を出した。
鳥の群れが一斉に鳴き出すのにも似た騒音とともに、車体から眩いスパークが放たれた。青白い筋が幾重にも伸びて、大蛇のようにうねっては消えていく。

「な……なんでしょうか、今のは!? 電気……? 電気でしょうか? 架線が漏電を起こしているのかもしれません。危険なので、いったん離れます。お返しします!」

緊迫した中継映像から、再び報道フロアに画面が戻った。キャスターも動揺しているようで、忙しない様子で「続報が入り次第お伝えします」と頭を下げ、コマーシャルが流れはじめる。

「架線が漏電……?」
「……にしては、不自然でした」

サイタマもジェノスも、同じ感想を持ったようだった。

「まさか、ヒズミが──乗り合わせて」
「可能性はあるな」

二人がどうすべきか頭を悩ませていたところへ、神懸かったタイミングでベルティーユからの通信が入った。着信を告げたのはサイタマの端末だったが、彼は先程の難解なやりとりを思い出して、自分で出ようともせずジェノスに通信機を手渡した。それを見たウェイトレスは慇懃に一礼して、店内へ去っていった。

「ジェノスです」
「私だ。臨時ニュースを見たか?」

しかし今回は普通にサイタマにも通じる言語だった。ジェノスは音量を少し上げて、サイタマにもベルティーユの音声が聞こえるようにした。

「見ました。……あれは」
「ヒズミだ。間違いない。高解像度に解析した画像を送る。確認してくれ」

言うが早いか、ジェノスの携帯電話が電子メールを受信した。素早く添付されていたデータを展開する。
さっきテレビに映し出されていた電車の、窓の部分がアップになった写真だった。割れたガラス越しに、海外のモンスター映画さながらに巨大な蜘蛛の姿と、それに相対する白髪頭の人間がはっきりと写っていた。

「ヒズミ……!」
「これも協会の仕業なのか? 例の研究所の連中か?」
「いや、それは違う、サイタマ氏。どちらも違う。協会がまさか怪人を利用するとは考えにくいし、研究所の人造怪人計画における“成功例”はヒズミただ一人だけだそうだから、あの蜘蛛の化け物は恐らく自然発生したものだろう。運が悪かった、としか言いようがない」
「ただ一人……? なんで断言できるんだ?」

サイタマが訝しげに眉根を寄せる。

「研究所の黒幕と部下の会話を盗聴するのに成功したのさ。いやはや、なにもかもが私の予想を超えている」
「盗聴……? 盗聴器を仕掛けたのは協会本部なのでは? なぜそこから研究所の情報が──まさか」
「その“まさか”さ。あの地下研究所を、ひいては“人造怪人量産計画”を立ち上げたのは──テオドール・ファン・ヴァレンタイン、ほかならぬ彼だったのだよ」

ジェノスもサイタマも、揃って息を呑んだ。

「病院を占拠したテロリスト集団も、地下にいた私たちを襲撃したのも、テオドール氏の部下だったようだ。それぞれ“研究所員”と“ヒーロー”という立場の違いはあれど、同じ指揮官のもとで作戦行動を展開していたのさ──“生存者を奪還すべし”とね。彼は自分の地位を利用して、どう転んでもヒズミが手中に収まるように狙っていたのだ」
「なぜあの男は、そんなことを……ヒーロー協会に所属していながら、怪人を造り出そうなどと……?」
「さあね。それは私の知るところではない。本人に聞いてみるしかないね」

ベルティーユはそらとぼけて言った。

「それよりも最優先すべきはヒズミの安全だ。あのまま放っておいては彼女の命が危ない。討伐隊の到着を待っている余裕はない。一刻の猶予も許されない」
「俺が行きます」

ジェノスが間髪入れずに宣言した。

「俺が──助けに行きます」
「君ならそう言うと思っていたよ。場所はわかるかい」
「問題ありません」
「そうか。ならば今すぐ向かっておくれ。サイタマ氏とゴーシュは私と合流しよう。困ったことに渋滞に巻き込まれてしまってね、二進も三進もいかない状態なんだ」
「わかり。ました。教授」

それまで黙っていたゴーシュが口を開いた。サイタマがぎょっとして振り返る。

「……そういや、こいつもいたんだったな。静かだったから忘れてたぜ」
「おいおい、ひどい男だなあ、君は。私の大事な“息子”なのだから、よろしく頼むよ」
「わかってるよ。こいつと教授さんとこ向かえばいいんだな? 場所は?」
「ゴーシュの自律思考ICチップ内に電波受信装置が埋め込んであるから、そちらに送るよ。サイタマ氏はゴーシュについていってくれればいい。──あと、ジェノス氏」
「? なんでしょう」
「ヒズミの“指環”に注意していてくれ」
「“指環”……?」

ジェノスは首を傾げかけて、すぐに彼女が右手の薬指にいつも指環を填めていたのを思い出した。黒い石のついた、安っぽいデザインのシルバーリング。

「あれは“制御装置”だ」
「制御装置?」
「彼女の脳波を常に計測して、限界を超えないよう──彼女の“進化”が肉体を自壊させる前に負荷を加えてストップをかけさせる“リミッター”なのだよ。あれがあるからこそヒズミは肉体の急激な変化に適応できている。あれを外せば彼女の裡の高エネルギーは暴走してしまうだろう。怪人との交戦中に外してしまうかもしれない。出力は飛躍的に上昇するだろうが、一時的なものだ。それに彼女の細胞はまだその電圧に耐えきれない。自らの発した電撃によって焼け焦げてしまうだろう」

昨日テオドールに襲撃されたときの記憶が蘇る。絶体絶命の窮地において、彼女は指環に手をかけていた。外そうとしていた。あれは──そういうことだったのか。
文字通りに、捨て身の策に出ようとしていたのか。
改めて自分の不甲斐なさに直面して、ジェノスの表情が険しくなる。

「……わかりました。留意します」
「いい返事だ。では──健闘を、祈る」

通信はそこで切れた。店を出て、二手に別れる。

「じゃあな。頑張れよ、ジェノス」
「はい、先生」
「オトコを見せてこい」

サイタマが軽くジェノスの肩を叩いた。オトコを見せてこい、という漠然とした指示の具体的な行動策はわからなかったが、やるべきことは決まっている。ジェノスは首肯で返した。
続いてゴーシュも動いた。ジェノスの前に歩み出て、右腕を持ち上げた。相変わらずの無表情のまま、握った拳の親指をぐっと立てる。

「ぐっど。らっく」
「……ああ」

ジェノスも同じポーズをとった。
それを見ていたサイタマが、からからと笑う。

「サイボーグのお前がそれやると、ラストで溶鉱炉に沈んでいくフラグにしか見えねーな」
「アイル・ビー・バック、とか言えばいいですか?」
「そうだな。ちゃんと戻ってこいよ」
「必ず戻ります。──ヒズミを連れて」

そして彼らは、それぞれの目的地へと走り出す。
“ヒーロー”としての責務を果たすために。