Negative Edge Trigger | ナノ





高速道路にずらりと並んだ車の列は、かれこれ数十分、一向に動く気配を見せていない。絵に描いたような“渋滞”の体現であった。そのド真ん中で、前にも後ろにも右にも左にも身動きがとれなくなっているタクシーがあった。運転手は白髪交じりの男性で、渋面を浮かべながら額を掻いている。

「お客さん、これしばらく動かないですよ」
「そのようだね。ふうむ、困った」

後部座席に座っているのは白衣の似合う若い欧米人の女性と、華美なワンピースを纏った年端もいかない少女である。あからさまに怪しげな取り合わせで、しかもさっきは外国語で電話をしていた。下手に遅れて機嫌を損ねてしまってはならない“お偉いさん”の類といった風貌ではないものの、どこか得体のしれないプレッシャーのようなものを運転手はひしひしと感じていて、この状況にやや焦っていた。

「仕方あるまい。私は私の作業に専念するとしよう」

肩を竦めて、女性は膝の上に置いていたノートパソコンを再び操作しはじめた。高速でキーボードを叩く軽快な音とカーラジオとの二重奏を、運転手は内心はらはらしながら聞いていた。

「……ふむ。どこまで追ったかな」
「C−0034ですわ、教授。Aエリア、Bエリアはサーチ済みです。DおよびEは談話室やエントランス等の公共にも開放された空間ですので、重要な情報を拾える可能性は低いでしょう。対象の活動圏内である可能性が高いのはBもしくはCかと推測されます。さらに執務室や会議室など、中枢部に近いのはCエリア。以上の条件から、現在サーチ中のゾーン内を重点的に洗っていくのがよろしいかと」
「そうかい。どうもありがとう、ドロワット」
「勿体ないお言葉ですわ」

明らかに普通でない会話だった。一体なにをしているのか、一介のタクシードライバーである運転手の男には想像もつかない。

「…………む?」
「どうかなさいましたか?」
「……対象の声紋と一致する音声をキャッチした。C−0058……第三執務室だね」

首に提げていたインカムを装着しなおし、白衣の女性は眼鏡の奥の青い瞳を光らせる。

「…………ビンゴだ。大当たりだ、………………」

弧を描きかけた形のよい唇が、動きを止めた。みるみる表情が強張って、端正な顔立ちが驚愕と動揺に彩られて崩れていく。

「教授?」
「まずいことになった。大変まずいことになった。あいつが──あの男が、すべての黒幕だった……」
「どういうことでしょうか?」
「地下研究所の謎が解けたのさ。ヒズミをあんな下種の玩具になどさせるものか。悪趣味な実験のモルモットになどさせてなるものか。至急サイタマ氏とジェノス氏に連絡を」
「承知いたしました」

いよいよ理解の範疇を超えてきた二人の遣り取りに、運転手は頭を抱えたくなった。ハンドルを握る掌には冷汗が滲んで、白手袋にじっとりと染みてひどく不快だった。早くこの奇怪な乗客を目的地まで運んで下ろしてそそくさと退散して一杯やりたい気持ちでいっぱいだった。

しかし彼のそんな思惑とは裏腹に、鎖のように連なった車の列はいまだ解ける兆候すら覗かせない。どこからともなく響くクラクションの騒音が、別世界のように遠く感じられた。




大蜘蛛が脚を一振りしただけで、優先席が剥ぎ取られて宙を舞った。窓ガラスが割れて砕け、破片の雨を降らせる。その常軌を逸した光景に、逃げ惑っていた乗客たちは体が竦んで動けなくなる。大声をあげて泣き出した男の子を、母親が庇うように抱きしめた。

「……うるせえな、くそがき」

それが大蜘蛛の発した台詞だということに、ヒズミはしばらく気がつかなかった。恐ろしく低く、地獄の底から響いてくるような、恨みのこもった声だった。

「決めた。お前から食ってやる」

八本の脚を蠢かせて、大蜘蛛が動いた。車内に侵入して“標的”めがけ前進する。一層激しく泣きじゃくりだした子供を守る壁になろうと、母親がその腕に力を込めた。惨たらしい、血腥い惨劇が展開される──と誰もが覚悟したそのとき、大蜘蛛の頭部になにかがぶつけられた。

それは携帯ゲーム機であった。大蜘蛛がぎょろりと複眼を動かして、それが飛来してきた方向を見た。独り言を呟きながらゲームに没頭していた、有体に言ってしまえば“オタク風”の青年が息を荒くして、見開いた目を血走らせながら大蜘蛛を睨みつけている。

「や、やめろよ、この野郎」
「……なんだ、お前」
「こ、こここ怖くなんかないぞ! 僕は──」
「わかった。自分から食ってほしいんだな」

大蜘蛛は標的を変更したようだった。ずるりと方向転換し、青年に襲いかかろうとしたところで、ヒズミを介抱していた金髪の男が大蜘蛛に突進した。渾身のタックルだったが、その力の差は歴然で、彼はまるで枯れ葉のようにあしらわれて吹っ飛ばされた。

「──がっ……!」

壁に叩きつけられて、呻き声を上げる。
しかし彼はすぐさま体を起こし、車内で震えている乗客たちに向かって叫んだ。

「突っ立ってんじゃねえ! さっさと逃げろ! 死にてーのか、お前ら!」

その一喝で目が覚めたのか、呆然と成り行きを見守っていた人々は弾かれたように走り出した。後方の車両へと続くドアへ殺到し、危機から脱しようと半狂乱になっていた。

「なんだ、お前。ヒーロー気取りかよ」
「実はヒーロー志願なんだよ」
「くだらねーな。だったら守ってみろよ。怪人から一般市民をよォ」
「言われなくても、やってやるよ……!」

金髪の男は血の混じった唾を吐き捨てて、忌むべき“怪人”と対峙する。大蜘蛛が脚を振り上げて、薙ぎ払おうとした一撃を咄嗟に躱して──そこに座り込んだままのヒズミがいるのに気づいて、表情を凍らせた。

「……しまっ──」

反射的にヒズミを庇おうと身を翻した彼に大蜘蛛の一撃がぶち当たった。決して華奢ではない体格の彼は車両の奥まで滑空して壁を突き破り、後方車両へ強制移動させられた。扉の脇で様子を窺っていた乗客たちの恐慌による絶叫はヒズミの耳にも届いていた。

大きな穴を空けられ、直通を果たした後方車両から、さっきまで思いつめた顔で背中を丸めていたサラリーマンが飛び込んできた。そしてヒズミのもとへ滑り込んで、その体を抱え上げようと試みる。

「早く、早く逃げるんだ! 立てるか!?」
「え……あ……」
「こんな──こんなところで死にたくないだろう! 頑張ってくれ! 頼むから──」

死にたくないだろう、と彼は言った。
死にたくない──なんて。
死ぬために、殺されるためにここにいた自分に対して。

死にたくないだろう、と彼は言った。

「俺は──俺は死にたくない。妻がこれから出産なんだ。結婚してから五年目で、ふたりとも年齢的にギリギリで、これが最後のチャンスなんだ。妊娠がわかったとき、死ぬほど嬉しかった。だから──俺は、こんなところで死にたくない……!」

彼は錯乱しきっていて、ヒズミを支えようとする腕はぶるぶると震えていた。そこへ──ふっ、と影が落ちる。サラリーマンの男が顔を上げると、すぐ眼前に大蜘蛛が覆い被さるようにして迫ってきていた。

「感動的な身の上話、どうもありがとよ」
「あ……うあああ……」
「でもよォ、心底くっだらねえな。どうでもいいわ。反吐が出る。そうやって人間どもは、いつも綺麗事ばっかり並べやがってよ。うざってえから──死ね」

ぼこっ、という気の抜ける音。
大蜘蛛の腹部に投げつけられたのは、今度はペットボトルだった。まだ開封されていない、新品のミネラルウォーターだった。続けてかわいらしいストラップのくっついた携帯電話が飛んできた。そして教科書、ペンケース、空の弁当箱、化粧ポーチ──女子高生がぼろぼろと泣きながらなけなしの武器を投擲しているのが、ヒズミからもよく見えた。

それに触発されたのか、他の乗客たちも一斉に攻撃を開始した。折り畳み傘やハンドバッグや文庫本が乱れ飛んで、大蜘蛛に浴びせかけられる。しかしそんな抵抗がなんの意味もなしていないことなど、その場にいた誰もがよくわかっていた。

それでも。
彼らは、彼女らは──抗っている。

(……どうして)

あんなに一生懸命なのだろう──と。
ヒズミは思う。

「おねーさん! 逃げて! 早く!」

女子高生の金切り声がヒズミの鼓膜を揺らした。
こんな状況下で。
赤の他人の命を落とすまいとしているのか。

死にたくないだろう、と彼は言った。

(ああ──そうか)

死にたくないのか。
死なせたく──ないのか。

(……彼も、同じだったんだろうか)

怖がらなくていい、と──
俺はお前の味方だと力強く宣言してくれた“彼”も。

自分を救おうとしてくれていたのだろうか。

なんてお人好しなのだろう。
こんな──こんな卑屈な臆病者を。
そうまでして。

まったくもって、笑ってしまう。
うっかり死にたくなくなってしまうではないか。

「……この鬱陶しいクズどもがあああっ!」

大蜘蛛が雄叫びを迸らせた。全員が気圧されて動けなくなる。そして大蜘蛛が地団駄を踏むように脚を振り下ろした。そこにはサラリーマンとヒズミが蹲っていて、二人は呆気なく踏み潰されて肉と骨の塊になる──はずだった。

しかしその手応えはなかった。床を踏み抜いて割ったのみで、血の一滴も落ちていない。大蜘蛛が辺りを見渡す──までもなく、ヒズミとサラリーマンは目の前に立っていた。

ヒズミが──まるで米俵のようにサラリーマンを担ぎ上げて、自分の足で堂々と立っていた。

「なんだあ? お前──」
「いや、やっと思い出したんだよ。思い知ったんだよ」
「は?」
「こんなクソみてーな命でも、たくさんの人が、たくさんの苦労をして、拾ってくれた命なんだってさ」

サラリーマンを下ろして、ヒズミは彼に下がるよう目配せした。彼は唖然としていたが、じりじりと後ずさるようにして大蜘蛛とヒズミから距離をとった。それを確認してから、ヒズミはおもむろにニット帽を掴んで毟り取った。

青い火花を散らす白髪が、公衆に晒される。

「こんなところで、お前みてーなクソの三下に奪われていいような軽い命じゃねーんだよ」