Negative Edge Trigger | ナノ
ベルティーユから持たされていた通信機が振動によって応答を求めてきたので、サイタマはベルトにねじこんでいたそれを手に取った。遮蔽物のないビルディングの屋上を疾走する勢いを緩めないまま、あらかじめ教えられていたボタンを押し、耳に当てる。
「S'il vous plait parlez en francais」
「あ? なんだって?」
「S'il vous plait parlez en francais!」
サイタマには理解できない言語であった。困惑している彼に気が付いたのか、ジェノスが足を止めて手を差し出してきた。自分が代わるから貸してくれ、というわかりやすいジェスチャだった。サイタマは素直にジェノスへ通信機を放り投げ、無線のような形状をした黒い機械は短い放物線を描いて綺麗にリレーされた。
ベルティーユの話す内容を瞬時に理解して、ジェノスは同じ言葉で返した。
「……なにか進展がありましたか?」
「おお、通じたか。よかったよかった。今タクシーの中でね、一般人に聞かれると少々まずい会話だから、私の御国言葉で失礼させてもらっている。ここまで聞き取れているかい?」
「問題ありません」
「助かるよ。本題に入ろう。ヒズミの携帯電話の座標が拾えなくなった。なんらかの理由によって、電波が発信および受信できない状態になっているのだと思われる。私たちの追尾を撒くためにヒズミが自ら端末を破壊したのではないかな。君たちは今、どこに?」
「ちょうどQ市に入ったところです。目標の飲食店までは、あと三十分もかからないでしょう。とりあえずそこへ向かって、従業員などに目撃情報を聞いてみます」
「そうしてくれ。私たちは引き続き協会へ向かう……が、やや道が混み合っていてね。想定よりも長い時間が必要になるかもしれない。その間に、以前ヒーロー協会本部のあちこちに仕掛けておいた盗聴器をチェックしてみる。設置してから長い月日が経過しているので、撤去されたか埃を被って機能しなくなっているかしているかしなければ、テオドールとやら氏の動向を掴めるかもしれない」
「……あなた、そんなことしてたんですか」
「なにせ“昔はやんちゃだった”からね。今ではすっかり丸くなってしまって、そんなものを仕掛けていたことすら忘れていたよ。いやあ、思い出してよかった」
ベルティーユはしれっとそんなことを言った。
「とにもかくにも、有力な情報が得られたら──得られなかったとしても、また一度こちらに連絡をもらいたい」
「了解しました」
「では。健闘を祈るよ」
必要事項を伝達するのみの簡潔な通話を終え、ジェノスは通信機をサイタマに返却した。再び二人は走り始める。駅前の市街地に差し掛かったところで、人気の少ない裏路地を選んで地上に降りた。そこから大通りに出て、人混みをかきわけながらヒズミが利用していたファミリーレストランを目指す。
「教授はなんだって?」
「ヒズミの携帯が破壊されて、追跡ができなくなったとのことです。近辺で目撃情報を集めてから、再度また連絡を入れてくれと」
「まさか、襲われたのか?」
「……その可能性は低いでしょう。ターゲットの方からコンタクトを取って──恐らく“出頭”を申し出ているのに、わざわざ波風を荒立てる必要性が見つかりません。ヒズミが自分で壊したのでしょう。俺たちがヒズミを見失って、追いかけられなくなるように……」
憶測を述べながら、ジェノスは奥歯を噛みしめる。駅前のスクランブル交差点の、信号が赤から青に変わるのを待つ時間すらもどかしく、まるで永遠のようにジェノスには感じられた。
それと時を同じくして、ヒズミは奇しくもジェノスとサイタマのすぐ近くにいた。
彼女は駅のホームで協会本部のあるA市へ向かう電車の到着を待っていた。人影はまばらで、およそ活気というものに欠けていた。誰もがスマートフォンや携帯ゲーム機とのにらめっこに夢中になっていて、どこまでも周囲に無関心だった。
(A市まで一時間ちょいか)
時刻表に記された数字の羅列を確認しつつ、それでも手持ち無沙汰で、ヒズミは意味もなくホームをうろうろ歩き回っていた。するとホームの隅に忘れ去られたように立ち尽くしている自動販売機とエンカウントした。財布の中には小銭がまだ少し残っていたので、ペットボトルの紅茶を買った。特別に喉が渇いていたわけではなかったのだけれど、糖分をふんだんに含んだ飲料は爽快感を伴って食道を滑っていった。大きく嚥下して、ヒズミは細い息を吐き出した。
(煙草、吸いたいな……)
ついさっきファミレスで数本ほど短くしたにも関わらず、もう既にそんなことを考えている自分に、ヒズミは思わず吹き出してしまった。ジェノスが聞いたら説教されるだろうな──と考えて、その表情がわずかに曇る。
もう──彼に会うこともないのだな、と。
今更ながらに、痛感した。
彼は書き置きを見つけてくれただろうか。大したことは書いていないけれど、落ち着いてみるとあの“追伸”はいささか恥ずかしかった。嘘を並べたわけではないが、逆に正直すぎた。男性とろくに触れ合ったこともないという非モテの事実を堂々と公開してしまった。できるならなかったことにしてしまいたい。今からでも舞い戻って消し炭にしてこようか、と冗談のように思う。
そうこうしている間に目当ての電車がのろのろとホームに入ってきた。地獄門めいて重々しく開いたドアをくぐって車内を見渡してみたが、座席は空いていなかった。混雑しているというほどではないものの、七人掛けの長椅子はすべて埋まっていて、数人が吊革を頼りに立っている。
そのまま電車はゆるやかに出発した。仕方なくヒズミは閉まったドアによりかかって、自分が腰を下ろせる隙間ができるのを待つことにした。ニット帽を目深に被り直して、車窓の外を早送りで流れていく景色をとりとめもなく眺める。身を潜める必要がなくなった今、わざわざ季節外れの帽子で白髪を隠すこともなかったかな──と遅れながら思い至ったが、今となってはもうそれもどうでもいいことだった。
無駄に車両にいる人間を観察してみたりした。ガムを噛みながら携帯をいじっている二十代前半くらいの金髪の男。その隣にはなにやら思いつめた顔をしたサラリーマン。高校生らしき制服姿のかしましい女子グループ。ぶつぶつ言いながらゲームを操作している根暗そうな青年。上品そうなご年配のマダム。小さい男の子と、その母親らしき主婦が手を繋いでいる。たいへん微笑ましい。
彼らはきっと──夢にも思っていないのだろう。
同じ空間に“怪人”が乗り合わせているなどとは。
その気になれば、ここにいる全員を。
高圧電流で焼いて灰にできる。
ただ素手で殴るだけで首を折れる。
そんな生き物なのだ。
ここにいる自分は──そんな化け物なのだ。
そんな恐ろしい化け物は。
いなくなった方がいい。
死んでしまえばいい。
正義の味方に殺されてしまうのが。
きっと相応しいのだ。
こんな──自分は。
もう誰にも迷惑をかけることのないように。
いなくなってしまえばいい。
(…………ああ、めんどくせえ)
もう考えるのにも疲れてしまった。
瞼を下ろして陰鬱とした、暗澹とした思考の海を漂っていたヒズミに、ふと横槍が入った。
「……い、おい、ねーちゃん。大丈夫か?」
はっとして顔を上げると、そこにいたのは若い男性だった。やや横着な風体で──左の頬に不自然な膨らみがある。それを見てやっとヒズミは、彼が座席にふんぞりかえってガムを咀嚼していた若者だと気がついた。その彼が身を屈めて、自分を覗き込むようにしている。知らないうちに座り込んでしまっていたようだ。
「…………あ、えっと……」
「いや、あんたいきなり床に座ったもんだからさ。顔色すげー悪いし。大丈夫か? あそこ座っていいよ」
彼はさっきまで自分が座っていたスペースを指さした。虚ろな目でぽかんとしているヒズミに、彼は眉をしかめた。しかしそれはヒズミの反応が薄いことへの不快感によるものではなく、純粋に彼女の状態を慮っているためであった。
「立てないの? 病院行った方がいいんじゃね?」
「あのう、大丈夫ですか?」
「車掌さん呼んできましょうかあ?」
遠巻きに見ていた女子高生たちも、おそるおそる、心配そうに寄ってきた。
「あたし、お水あるんですけど。あ、これさっき買ったやつなんで。まだ開けてないんで。飲めますか?」
「あ、いや、大丈夫です……ちょっと、眩暈がしただけなので。立てます。大丈夫です……」
「無理すんなよ。俺ちょうど次で降りるからさ、駅員さん呼んできてやるよ」
若者がそう言って、ヒズミの肩を支えようとした。
その瞬間──唐突に異変は起きた。
硬い金属同士が激しく摩擦するような音が凄まじく響き渡って、がくん、と大きく揺れた。
ちょうど河川を跨ぐ鉄橋の上を通過しようとしていたところで、傾いた車体はあわや転落するかと思われたが、そうはならなかった。なにかに引っ張られるように、強引に、線路へ戻されたような──奇妙な揺れ方だった。揺さぶられ方だった。
「な……なんだあ? 今の──」
再び破壊音が轟いた。発信源は前方の車両のようだった。ばきっ、ぐしゃっ、という物騒な音に紛れて、人の悲鳴が聞こえた。なにが起こっているのかわからず、その場にいた全員が混乱に目を白黒させながら硬直していた。ヒズミも全神経を集中して目と耳を凝らす。不穏な気配はどんどんこちらへ近づいてくる。車両と車両を繋ぐ扉が勢いよく開け放たれ、そこから怒濤のように乗客たちが流れ込んできた。死にもの狂いで──まるでなにかから逃げているかのように。
「お、おい! なにがあったんだよ!?」
「か──怪人だよ! 怪人が出た!」
転がり込んできた中年男性の上擦った言葉に、ヒズミはびくりと反応した。“怪人”という単語がまさか自分を指しているのではないかと思ってしまったのだ。しかしそれがそうではないことを、わずか数秒のちに、思い知ることになる。
自動的に閉まろうとしていた扉が、周りの壁ごと押し潰された。圧倒的な力によってひしゃげて、鉄屑に格下げされた。
そこから姿を現したのは──蜘蛛だった。
暖かい季節によく見かける、土色の蜘蛛だった。
それが“異形”として人々を恐怖の渦に突き落としている所以は、なにを措いてもその大きさだろう。軽トラックほどはあろうかという体躯から、八本の脚を禍々しく伸ばしている。それぞれの先端には大きい爪が二本と小さい爪が一本、蠢動していた。全長は五メートル弱ほどだろうか。
頭部にびっしり並んだ複眼が、不気味な光沢を放ちつつ、こちらをぎょろりと睥睨している──
「…………マジかよ」
これは──なんということだ。
正義の味方の本拠地に赴こうとしていた“怪人”が、こんなクリーチャーの襲撃を受ける羽目になろうとは。
ちょっと、出来過ぎなのではなかろうか。
口の端を歪め、どこか自嘲的に笑うヒズミ。
大蜘蛛はその口を獰猛に広げ──歓喜の咆哮を上げた。
飢えた捕食者が、格好の餌食を見つけたとでもいうように。
“それ”は、けたたましく吼えた。