Negative Edge Trigger | ナノ





ニーナ・スタラーチェ、二十六歳。
某有名大学を卒業後、第一志望だったヒーロー協会へ就職。総務部で一年半のキャリアを積む。その敏腕を見込まれ、テオドール直々に彼の主宰する対怪人対策チームへのスカウトを受ける。彼の思想および人柄に感銘を受け、加入を快諾。人類に仇を成す怪人どもを一掃するという目的のもと、まるで軍隊めいた地獄の訓練に耐え、あらゆる重火器の知識や白兵戦の技術を身につけ、一般市民の安眠のために粉骨砕身の日々を送る。

そんなニーナの強い使命感が今、揺らいでいた。

討伐すべき“怪人”に蹴り飛ばされた脇腹は痣になってはいるものの、骨に異常は出ていなかった。身の毛もよだつ白髪の、若い女の姿をしたそいつは、自分のことを殺そうと思えば楽にできたはずだった。しかし、そうはしなかった。
手加減──されたのだ。

むしろ“教授”に撃たれた傷の方が重かった。いくらゴム弾とはいえ、正確に鳩尾を撃ち抜かれてはたまったものではない。現在も呼吸の度に胸が鈍痛を訴えてくる。銃器との相対など想定していなかったので、嵩張るうえに動きづらい防弾チョッキは着ていなかった。その隙を突かれたのはもちろん腹立たしかったが、それよりも問題なのは──そう、手加減されたという紛れもない事実だ。

“怪人”が本気で攻撃してきていたら。
“教授”が拳銃に装填していたのが実弾だったら。
自分はとっくに墓の下だった。

ともに出撃したアンネマリーも、意識こそ回復はしていないが比較的軽傷とのことだった。強烈な電撃を受けたことによる後遺症の心配もないらしい。先ほど協会所属のドクターからそう聞かされて、ニーナは内心ほっと安堵していた。

病院に突入し、ベルティーユ一味の拿捕を命じられていたフブキ組の連中も、一様に無事だったと小耳に挟んでいる。協会直属の医療機関のベッドで、リーダー格のマツゲが額の青痣を悔しそうに掻いていたそうだ。きっと自分と同じあの非致死性の、相手を舐めきった弾丸にやられたのだろう。

(……情けでも、かけたつもりか)

テオドールに見初められ、自分自身で戦う覚悟を決めたときから、死など恐れてはいない。
恐れてはいないと──思っていた。

執務室のドアをノックすると、中から「どうぞ」と返事があった。照明の絞られた薄暗い室内にいたのはテオドールだけだった。自分のデスクについて業務をこなしていた彼はニーナを見ると眼鏡の奥の目を大きくして立ち上がった。子供のように屈託なく口角を上げて、ニーナに歩み寄る。

「やあ、ニーナ。もう大丈夫なのかい」
「ご心配をおかけしました。申し訳ございません」
「謝ることはない。大した怪我でなくて、よかったよ。座ってくれ。コーヒーでも淹れよう」
「あ、いえ、そんな。テオ様、自分がやりますので──」
「いいんだよ。僕からの、部下への労いの気持ちだ。気にせず受け取ってほしいな」

ニーナを強引に来客用のソファに座らせて、テオドールは部屋の隅に設置されたコンロで湯を沸かしにかかった。もとより陽気な性分の彼だったが、今日はことさら機嫌がよさそうだ。

「アンネマリーも、一週間ほどで戦線に復帰できるそうです」
「そうかい。あんな化け物の一撃を食らって、その程度の傷で済んだのはラッキーだったね」
「……手加減、されたのでしょうか」
「いいや、きっとまだ能力をコントロールできないのだろう。もっと時間が経って、変化に体が馴染んでしまっていたら──あの化け物の進化が完了しきっていたら、ただでは済まなかったはずだよ」

テオドールはそう言って、淹れたてのコーヒーを注いだカップをニーナの前に置いた。ついでに自らの分も用意して、ミルクをどばどば足していく。もはやカフェオレと化したそれに口をつけて、テオドールは悪戯っぽく片目を眇めた。

「早くどうにかしなければ、僕らの手には負えなくなる」
「……次の一手を、早急に打たないとなりませんね」
「ああ、そう思って、ちょっと焦っていたんだけれどね──」

まったく焦っている様子のない、むしろ余裕さえ感じさせるテオドールの物言いに、ニーナは違和感を覚えた。その真意が汲み取れず、ニーナが首を傾げる。

「焦って“いた”とは? なぜ過去形なのです?」
「簡単なことさ。今しがた、その化け物から降参宣言があった。今からここ──協会本部に“出頭”してくれるそうだ」
「……! まさか、……罠なのでは?」
「可能性はゼロじゃあないが、それでも僥倖だ。念のために捕縛準備はしておくが、僕としてはその必要もないんじゃないかと思っている。昨日あの化け物に負わせた傷は、いくら怪人とはいえ一朝一夕で完治するものじゃないだろう。保険をかける価値はあるだろうけどね」

甘ったるいコーヒーを一気に飲み干すと、テオドールは空になったカップをソーサーに戻した。ポケットから取り出したクロスで眼鏡のレンズを拭きながら、上機嫌な口振りで続ける。

「まさかこうもすんなり事が運ぶとは、想定外だった。もう少し骨があるかと思っていたけれど──案外、脆かったみたいだね。簡単に折れてしまったようだ」
「……殺すのですか?」

問いかけてから、ニーナは後悔した。なにを当たり前のことを──と。自分がそんな生温い疑問を一瞬でも抱いて、あまつさえ言葉にしてしまったことに羞恥した。撤回しようとしたニーナだったが、テオドールから返ってきたのは「まさか」という、彼女の予想を裏切るものだった。

「殺すものか。最初は死体でも回収できれば“今後の研究”に活かせると思って、所員の同志に病院ごと襲撃させるという暴力的な手段に出たりもしたが、生きたまま手中に収められるならそれが一番いい。最高だよ」
「……は? えっ? なん……ですって?」



病院ごと襲撃?
所員の同志?
……今後の──研究?



「拡張しすぎた機器の制御に失敗して研究所を失ってしまったのは正直とても痛かったが、それなりの収穫を得ることはできた。難航を極めていた実験の、唯一の成功例がこんな形で生まれるとは──事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。そうは思わないかい、ニーナ?」

眼鏡をかけ直して、テオドールは邪悪な笑みを浮かべる。

「彼女は貴重なサンプルだ。僕の“人造怪人量産計画”を大きく飛躍させるための、大事な大事な被験体だ。斃してしまうには、殺してしまうには、あまりにも惜しすぎる」
「ま──まさか──あなたは──あなたが──あの──あの“地下研究所”の──」
「腹を裂いて肉を抉って骨を砕いて血液を採取して臓腑を摘出して、奥の奥まで調べつくさないといけない。生きたまま解剖して、ショック耐性も確認したいね。痛みに発狂するまで甚振ってから、頭を割って脳内物質の分泌傾向のデータも取りたい。彼女の再生能力なら簡単に死にはしないだろう。たとえ死んでしまっても、その価値までは死なない。防腐剤なしでどれほど死体が腐食せずに原型を留めていられるのかも見てみたい。ああ、胸が躍るよ。興奮するよ。彼女は一体──どういう生き物になっているのだろうね?」

悍ましいテオドールの狂乱に、ニーナはカップを取り落した。陶器製のそれは床に直撃し、砕けてただの破片となった。コーヒーが絨毯に染みて、黒い染みを広げていく。

「あ……あああ……」
「おや、どうしたんだい。君らしくもない」

がたがたと震えているニーナの傍らに、テオドールが跪いた。まるで忠誠を誓う騎士のようだったが、その顔に清らかさなど微塵もない。ニーナの膝、タイトスカートの裾あたりを優しい手つきで撫でながら、まるで悪魔が魂を食いものにせんと誑かすように囁きかける。

「怪人の発生を人為的に起こす。事件の数が飛躍的に多くなる。そうすれば市民の危機感は膨らんで、協会の存在意義も大きくなっていく。ただの民間組織が、格別の地位と権力を手に入れられる。政府やスポンサーからの資金援助も増える。今よりも、もっと、僕たちが世間に必要とされるんだ。ニーナ、君も協力してくれるだろう? 僕のこの崇高なる理想をわかってくれるだろう? ねえ、僕の大切なニーナ」

こんなものは甘言だ。
奸計だと──わかってはいても。
ニーナには拒めなかった。

かくして、彼は──テオドール・ファン・ヴァレンタインという黒幕は、己の幸運を神に感謝しつつ、悪辣きわまりない歪んだ笑みを浮かべるのだった。
下唇を噛んでうつむいていたニーナは、その計り知れない深淵を見てはいなかった。
こんな巨悪を直視など──できるはずも、なかった。