Negative Edge Trigger | ナノ





「……さい、起きなさい! 起きろってば! 呑気に寝てるんじゃないわよ! このハゲ! ダメハゲ!」

鈴を転がしたような、かわいらしい罵倒によって叩き起こされたサイタマがのそりと体を起こし寝惚け眼をこすって焦点を合わせると、そこにはドロワットがいた。
顔も、喋り方も──完全に元通りになっていた。

「…………あー、直ったのか」
「なによ。文句あるわけ?」
「いや、やっぱりこっちの方がいいなと思って……」
「くだらないこと言ってる場合じゃないわよ! 緊急事態なんだから!」
「あ? 緊急事態?」
「ヒズミがいなくなってしまった」

引き継いだのはベルティーユだった。スマートフォンらしき小型機器とノートパソコンをケーブルで繋いで、忙しそうにかわるがわる操作している。

「はあ!? なんで!?」
「わからないが──ちょっとそこまで、というわけではないだろうね」
「……まさか、俺たちに申し訳ないとか思って出て行ったんじゃねーだろうな」
「彼女の性格を考慮するに、その説が現状では最も有力だね。ジェノス氏、どうだい。繋がったかい?」
「──だめです。出ません」

延々と呼び出しを続ける携帯電話を折り畳んで、ジェノスが舌打ちする。その口調には動揺と苛立ちが顕著で、無表情ながら彼が相当に焦っていることが容易に読み取れた。

「なにを考えているんだ、あいつは……!」

ジェノスが押し殺した声を絞り出す。来る決戦に備えて万全の状態を整えておこうと、完全休止状態に入ってしまったのが仇となった。探知機能をすべてオフにしてしまったせいで、ヒズミが目を覚まして部屋を出ていくのに、まったく気づくことができなかった。

「今、GPSでヒズミの通信端末の座標を追っている。居場所がわかり次第、捜索に移ろう。サイタマ氏、起きたばかりのところ申し訳ないが、すぐに出られるよう準備をしてくれ」
「ああ、わかった」

ベルティーユとサイタマがそんな会話を交わすなか、ジェノスはベランダに出て眼下に広がるゴーストタウンの街並みを眺めていた。今朝早くにドロワットとゴーシュが“再起動”したときには既にヒズミの姿はなく、このベランダに通じる引き戸の鍵が開いていたらしい。ここからヒズミは出て行ったようだ。常人なら飛び降りれば潰れたトマトと化してしまうであろうこの高さでも、彼女の身体能力があれば着地することくらい朝飯前だろう。しかし彼女は現在“手負い”である。
傷に障らないとは──到底、思えない。

そこへ現れたのはゴーシュだった。のたのたとスローな歩調で、ジェノスの隣に並んだ。柵よりも低い位置にある頭が緩慢な速度で動いて、宝石のように碧い瞳がジェノスを見上げる。

「心配。なの。ですか」
「……ああ」
「あなたは。どう。したい。ですか」
「…………よく、わからない」

昨夜、ベルティーユにも問われたこと。
解答欄は、まだ白紙のままだった。

「あいつが、どうすれば救われるのか、俺にはわからない。俺は……強くなることで、戦うと決めたことで、過去から立ち直った。目的があれば生きていけると思った。だからヒズミにも、そうあってほしいと思った。……だが」

彼女は“付き合ってられない”と言った。
あなたのようにはなれない、と、震えていた。

その彼女に、戦え──などと。
無責任に追い詰めるようなことを吹き込んでしまった。

彼女がどれほど苦しんでいたかも知らずに。

「後悔。して。いるの。ですか」
「……後悔、か……そうかもしれない」

ジェノスは目を伏せる。
項垂れている彼に、ゴーシュがなにかを差し出した。

「これは……?」
「今朝。ベランダに。落ちて。いました」

ヒズミが吸っている煙草の空き箱だった。くしゃくしゃに丸められていて原型を留めていなかったが、ジェノスは黙ってゴーシュからその残骸を受け取ると、何気なく開いてみた。そしてそれが、ほんの少し不自然な状態になっていることに気づく。
折り目のところが千切られて、破られていたのだ。丁寧に皺を伸ばしていくと、残骸は直方体の展開図になった。挟まっていた銀紙を抜き取って──そこには小さな文字が並んでいた。

短い間でしたが大変お世話になりました
ご迷惑をおかけしました
ごめんなさい
本当に、ごめんなさい。

ヒズミの筆記を見たことはなかったが、それが彼女の書いた文字であることはすぐにわかった。
自分の手が震えていることをジェノスが知ったのは、数秒が経過したあとのことだった。抑え込もうとしたが、制御がうまくいかなかった。身体も──思考も。

「……あいつは全部ひとりで背負い込もうとしている。他人から傷つけられることを恐れるだけでなく、他人から手を差し伸べられることすら怖がっている。誰とも深く関わろうとせず、闇雲に距離を置いて、ひとりで──」
「ひとりは。寂しい。です」
「……そうだな」
「そばに。誰かが。いて。あげれば」
「……………………」
「一緒に。いて。あげて。ください。それだけで」
「それだけで──」
「しあわせに。なれる。こともある」

そう言って、機械仕掛けの少年は。
一度その哀れな生涯を終え、新たな“母親”の手によってアンドロイドとして生まれ変わった少年は──無機物の双眸で、ジェノスを真正面から見据える。

そして、ジェノスの手中にあるヒズミの置き手紙を、正確には退けられていた銀紙を指差した。促されるままに銀紙を開くと、そこにはなんと“続き”があった。

追伸.男のひとに抱きしめられたのは
あれがはじめてでした。
恥ずかしながら、ちょっと嬉しかったです

「…………ヒズミ」
「僕は。しあわせ。です。いま。教授がいて。ドロワットもいて。しあわせ。です」
「…………………………」
「彼女も。彼女のことを。ほんとうに。大事にしてくれるひとと。想ってくれるひとと。一緒にいられたら。それだけで。しあわせに。なれると。僕は。思います」

それは無口なゴーシュの常を知るベルティーユやドロワットが聞いていたらさぞや驚いたであろう、いっそ奇跡的なほど長く紡がれた言葉だった。

「一緒に。いて。あげて。ください。ひとりは。寂しいから」

味方のいない、孤独な世界で生きてきたヒズミを。
ただそばにいて、見守ってやること。

──そうだ。

単純なことではないか。
彼女の悲しみを理解することはできなくとも。
肩代わりすることはできなくとも。
ただ受け入れて──ともに生きていくことはできる。



彼女を絶対に、もうひとりぼっちにしない。



「……答えは。見つかり。ましたか」
「ああ。目の覚める思いだ。……ありがとう」
「どう。いたし。まして」

ぺこり、と頭を下げて、ゴーシュは部屋に戻っていった。ジェノスもあとについていく。その表情は凛々しく、憑き物が落ちたかのように精悍としていた。
やるべきことは見つかった。
やっと──解答欄が、埋まった。

リビングでは、インカムを装着したベルティーユが真剣な顔でコンピュータの画面を睨んでいた。サイタマは既にヒーロースーツに着替えていて、腕を組んでフローリングに胡坐をかいている。ジェノスとゴーシュが室内に戻ったのに気づいたベルティーユはインカムを外し、下がり気味になっていた眼鏡のリムに触れて位置を戻しながら口を開いた。

「……ヒズミの居場所がわかったよ。目的地もね」
「ヒズミは今、どこに?」
「座標はQ市のファミリーレストランだ。継続して三十分そこを動いていない。そして今さっき、音声通話記録が更新された。ヒズミの方から発信したものだ」
「電話をかけたということですか? 誰に?」
「ヒーロー協会の、テオドールにだ」

発せられた名前に、ジェノスは思わず目を瞠る。

「どうして……」
「会話を傍受できたのは途中からだったし、そもそも短い通信だったから信頼度の高い情報ではないが──恐らく、彼女は協会に“投降”する気だ。自分が身を捨てれば、それで終わると思ったのだろう。……大した自己犠牲精神だ」
「一刻も早く、止めなければ」
「ヒズミが協会へ着く前に確保したい。取り急ぎQ市へ向かおう。鉄道を利用すれば、一時間くらいで着くだろう──が、君やサイタマ氏は自分の脚で走った方が速かったりするのかな」
「多分な。やったことねーけど」
「十全だよ。サイタマ氏とジェノス氏は全速力でもってQ市へ。ゴーシュもついていかせる。私とドロワットはタクシーでも拾って協会へ向かう。進展があったら報告をおくれ。私は随時GPSとヒーローたちの動向をチェックしておく。なにかあれば連絡を入れる。難しいかもしれないが、可能な限り携帯電話をすぐ確認できるように気を配っていてくれ。──さて、面白くなってきた」

てきぱきと指示を出して、ベルティーユは笑った。
鳥肌の立つほどに、不敵な表情だった。

「弱いものいじめにご執心のヒーローさんがたに、とくと見せてやろうじゃあないか。正義は勝つという絶対の真理を、暗黙の不文律を──ね」