Negative Edge Trigger | ナノ





家庭が怖かった。
いつもは明るく笑顔の絶えない母親が、別人のようにヒステリックに喚き散らすのが怖かった。いつもは温厚で優しい父親が、そんな母親に怒鳴り返しているのが怖かった。父親が母親に暴力を振るう音が怖かった。母親が父親に投げつけたグラスの割れる音が怖かった。部屋にこもって喧嘩が終わるのを待っていたら、鬼のような形相をした母親が入ってきて「止めに来ないなんてお前は冷たい娘だ」と叱りつけられて頬を打たれた。以前ふたりの仲裁に入ったとき、父親に「子供が口を出すな」と太腿を蹴り飛ばされたことがあったので、一体どちらの言いつけを守れば怒られずに済むのかわからなくて怖かった。

学校が怖かった。
中学時代、一緒に昼食を食べる仲間はいたけれど、休日に連れ立って出かけるような親しい友人はいなかった。クラスメイトたちはいつも先生や他の級友の噂話や陰口をマシンガンのようにまくしたてるのに忙しく、その無作為で無邪気な悪意が怖かった。どうにも居心地が悪かった。高校に上がっても、それは変わらなかった。相変わらず同年代の男子も女子も怖かった。当然ながら、周りが浮かれているような色恋沙汰にも縁がなかった。つきあいで吸い始めた煙草がやめられなくなった。

一年生の夏、当時の担任だった男性教師に頼まれて放課後ひとりで雑用をこなしていたら、その担任が教室へやってきて体を触ろうとした。初めての経験だったので、ものすごく怖かった。咄嗟に椅子で教師を殴打して、人を呼ぶために大声を出した。駆けつけた別の教師に担任は連れて行かれた。瞬く間に大騒ぎになった。どうやら叩いたら埃が大量に出てきたらしかった。他にも担任にセクシャル・ハラスメントを受けたという女子生徒が何人か名乗りを上げてきた。担任は“ワイセツキョーシ”の汚名を受け、警察に逮捕され、学校を追い出された。

社会から詰られ、謗られ、妻と子供にも見捨てられた担任が、執行猶予中に死んだという話を風の便りに聞いたのは夏休みが終わってすぐのことだった。ビルの屋上だったか、駅のホームだったかから落ちたとのことだった。詳しいことは覚えていないけれど、単なる事故として片づけるには少し無理のあるシチュエーションだったことは記憶している。落ちたのではなく飛び降りたのだと、クラスメイトたちが黄色い声で笑いながらランチタイムのネタにしていたのが怖かった。

担任の人生を大きく狂わせてしまったことに対して、罪悪感があった。自分が悪いことをしたわけではないとわかってはいても、いつか担任の親しい身内から「お前のせいだ」と罵倒されるのではないかと怖かった。学び舎の生徒たちから英雄のように持ち上げられたのも怖かった。とくに担任から日常的にボディタッチを繰り返されていた女子の数人からは、泣いて感謝された。それらの相手をするのが面倒になって、いたたまれなさに耐えきれなくなって、逃げるように学校を辞めた。

手当たり次第にアルバイトの面接を受けては落とされ、受けては落とされ、一ヶ月のニート生活を経たのち、なんとかフリーターに昇格することができた。店長は気のいい四十代の女性で、ミスを指摘するときは怖かったけれど、わけありで中退した人間に親切心でいろいろと世話を焼いてくれた。先輩たちも優しかった。ニコニコと他人に愛想笑いを振り撒くのは初めてのことだったけれど、幸いなことにその行為は苦手ではなかった。苦痛ではなかった。

父親は「お前が決めたことだから」と静観を決め込んでいたが、母親はどうにかして国民の三大義務である“教育”を果たそうと躍起になっていた。予備校や通信制高校のパンフレットを毎日山のように持ち帰ってきては読めと言った。それが原因で、また両親の口論が増えた。まるで言い訳をするかのように、昼夜アルバイトに明け暮れた。意図的に夜勤を増やし、家族となるべく顔を合わせないようにした。無心で誰もいない深夜のコンビニの床を磨いたりソフトクリームの機械を洗浄したりレジの清算業務をしたりして、数年の月日を過ごした。気怠いBGMだけがゆるゆると流れる店内にいると不思議と心が安らいだ。気がつくと二十一歳になっていた。
貯金が一定額できたら、安いアパートでも借りて実家を出ようかと思うようになっていた。



……あの事故が起こるまでは。



ファミリーレストランの奥まったボックス席で、ヒズミはドリンクバーのオレンジジュースを飲んでいた。カブトムシが樹液をすするように、甘い液体で喉を潤していた。朝食としてフレンチトーストも注文していたが、あまり食べる気が起きず放置してしまっている。添えられた生クリームが溶けて、だらしなく皿に広がっていた。

店内の時計を確認する。午前十時半を少し回っていた。黙って出てきてしまったから、今頃サイタマ宅は大騒ぎになっているかもしれない。心中だけで謝って、ヒズミはジャケットのポケットから携帯端末を取り出した。鬼のような着信履歴が表示されていて、苦笑が漏れた。

かけ直すことはしなかった。
どうせ──帰るつもりなど毛頭ないのだ。

ソファの背もたれに体重を預けると、背中が鈍痛を訴えた。出血こそ止まってはいるけれど、まだ完治はしていない。激しい運動でもしようものなら、再びぱっくりと口を開けて人体模型がごとく中身がコンニチハすることだろう。その光景を想像して、少しだけ身震いした。痛いのは、やっぱり怖い。

けれど、もう後戻りはできない。

意を決して、ヒズミは携帯のキーを叩いた。目的の番号は覚えやすい語呂合わせに設定されていたので、迷いなく押すことができた。三回目のコールで相手が出た。事務的な女性の声だった。とある人物に代わってほしい旨を告げると、相手は訝ってこちらの素性を聞き出そうとしてきた。名前を出すのは得策ではないと思ったので、適当にごまかして“本人に伝えてもらえればわかる”と強引に押し切った。相手は納得いかない様子ではあったけれど「少々お待ちください」と言って、そして保留音に切り替わった。ジムノペディのダウナーな電子メロディが三十秒ほどだらだらと流れて──“彼”が、電話に出た。

「……もしもし。お忙しいところ、突然すみません」
「君の方からかけてくるとは思わなかったよ」

間違いなく“彼”の声だった。
ヒズミはフォークの先で原型を失いつつある生クリームを弄びながら、話を続ける。

「今日、お時間ありますか?」
「君のためならいくらでも暇を作るよ」
「色男の台詞ですね。いつもそうやって女性を口説いてるんですか?」
「どうでもいい女には言わない。特別な子にだけさ」
「ははあ、常習犯ですね」
「浮気性な男は嫌いかな?」
「人類の敵ですね」
「手厳しい。刺されないように気をつけないとね」
「今日は喧嘩するつもりはありませんから、安心してください。これからそちらへ伺いますので」
「おいしいお茶とお菓子を用意して待ってるよ」
「期待してます。では、またあとで──テオドールさん」

ヒズミは通話を切って、携帯を折り畳んだ。
逆方向に。
ぺきりと軽い音を立てて画面が暗転した。
いとも簡単にガラクタと成り果てた携帯の残骸をソファに放り捨て、ヒズミはフレンチトーストを切り分け始める。

(最後の食事にしては、ちょっと質素すぎたかな)

なんて、ちょっと卑しすぎるだろうか。
化け物の分際で。
“怪人”の──分際で。

砂糖がたっぷり振りかけられたはずのトーストは、なぜだかまったく味がしなかった。
無味無臭の朝食をあっという間に平らげてしまい、ヒズミは煙草に親指で火を点ける。もうこの異能を隠す必要はなかった。
ゆっくり一服して、席を立つ。会計を済ませて店を出る間際、店員が「またお越しくださいませ」と声をかけてくれた。

ありがとう、でも二度と来ることはないでしょう──と。
口には出さずに微笑んで、ガラスの扉をくぐって外へ出た。

昨夜の豪雨が嘘のように、晴れ渡った空がヒズミを出迎えた。