Negative Edge Trigger | ナノ





大した面積のないベランダなのに、妙に広く感じてしまう。
それがなぜなのか、どういう心因によるものなのか、自身のことながらジェノスは測り兼ねていた。壁に背中を預けて座り、ぼんやりと雨にけぶる夜空を眺めていた。

その傍らには、吸殻が詰まったままの空き缶が置かれている。それがじっと責めるようにこちらを見ている気がして、ジェノスは拳を握りしめた。しかしすぐに力なく指は解けてしまう。怒りによって攻撃的になっている自分と、敗北感に苛まれて無気力になっている自分と、巨悪を打ち倒すという使命に燃えている自分が綯い交ぜになって、黒々と渦を巻いていた。その中心には別の感情もあるような気がしたが、濁流に隠されてしまって判然としない。
こんなことは初めてだった。

(……ヒズミは)

いつ目を覚ますだろうか。
守るべき相手に、逆に庇われてしまった。きっと「雨で帰れない」というメールを見て、GPS機能を頼りに迎えに来たのだろう。ベルティーユの用意した通信端末なのだから、それくらいのことは容易に違いない。不用心なことを、という憤りはあったが、しかし彼女が現れなければ自分は寸断されて細分されて解体されて今ここにはいられなかった。どんな言い訳を並べてもまるで無意味なほどにはっきりと、彼女はジェノスの命の恩人なのだった。

「隣、いいかい?」

かけられた声に振り向くと、ベルティーユが顔を出していた。ジェノスの返事を待たず、彼女はベランダに右足を引きずりながら押し入ってきた。随分と重たそうなアタッシュケースを両手で提げている。

「……寝たのではなかったのですか」
「いや、どうにも目が冴えてしまってね。布団の中でごろごろするのにも飽きたので、助手の修理でもしようかと思ったのさ。さすがにサイタマ氏とヒズミが眠っているリビングでは広げられないから、ここに来た。邪魔してすまないね」
「いえ、問題ありません」

ベルティーユがジェノスの隣に腰を下ろして、アタッシュケースを開けた。中には奇妙な形状の工具やら細々とした部品やら、一般人にはなにに使うのか想像もつかないような素材が詰まっていた。漫画の単行本ほどのサイズの基盤と、先の尖ったドライバーのような器具を手に取り、ベルティーユはなにやら作業を始める。

「ジェノス氏の方こそ、休まなくていいのかい」
「………………」
「眠れないのかい? ふふ、繊細なんだね」

揶揄するようにベルティーユは口を斜めにした。

「いいようにされて、悔しいのかい」
「……それだけではないかもしれません」
「というと?」
「ヒズミは──ひどく怖がっているように、見えました」
「それは……あんな事態に巻き込まれれば、当然のことなのではないのかな」
「テオドールたちに対しては、勿論そうなのですが……それだけではないように、見えたんです」

ひたすら許しを乞うように。
意識を失うまで。
それは壊れたレコードにも似ていた。
ごめんなさい──と。

「俺にはわからないんです。ヒズミがなにを考えているのか」
「他人の頭の中が覗ける方法なんて見つかったら、問答無用で満場一致でノーベル賞だよ」
「教授は、ヒズミと一緒にいて──どう思いましたか」
「どう、とは?」

ベルティーユの疑問符に、ジェノスは答えられなかった。
尋ねたいことが曖昧すぎて、形にならない。

「怖がっていた──か。そうだなあ」

作業の手を止めることなく、ベルティーユは息を洩らす。

「確かに彼女は、いつも怯えているようだった。病院から研究所に移送されてきたときも、えらく縮こまっていたね。語尾が“すいません”か“ごめんなさい”だった。謝るのが癖になっているんじゃあないのかな」
「両親に虐待を受けていたと聞きました」
「ああ、確かに家庭円満というわけではなかったようだね。しかし痣になるほど強く叩かれたとか、学校に行かせてもらえなかったとか、そんなレベルではなかったようだから虐待という犯罪行為にカテゴライズできるケースではないね。そもそも親に殴られたことのない子供の方がマイノリティな世の中だろう。しかし──その経験は彼女に深く根づいているのかもしれない。そしてそれが、彼女のその“恐怖”こそが“怪人化”のトリガーになったのやも」
「“怪人化”の……? どういう意味です?」

ジェノスが身を乗り出した。

「事故直後、ヒズミが発見された現場──実験の中枢を担っていたあの空間で観測されたという電磁波を解析したところ、一種の催眠効果が確認されたらしい。脳内のセロトニンを抑制し、逆に青班核に刺激を送ってエピネフリン、ノルエピネフリン──わかりやすく言い換えると“アドレナリン”の過剰分泌を誘発する作用がね。それによって精神の錯乱を人為的に起こし、怪人への変異を促していたのだろう。その忌まわしき電磁波が、彼女の“恐怖”と同調して、増幅して、遺伝子ごと書き換えて……まったく別の生き物へと変えてしまった」
「……………………」
「よくいう迷信があるだろう。あまりの恐怖で一夜にして髪が真っ白になる──と。生物学上そういう現象は有り得ないのだが、彼女はもはやヒトではない、人智を超えた対象だ。可能性はゼロじゃあない」

渇いた砂のような、あの蒼白の頭髪。
恐怖の──象徴。

それは一体、どれほどの苦痛であったのだろうか。

「……自分は、ヒズミを助けたいんです」

驚くほどするりと、その言葉が口から滑り出た。
生きづらさを抱えて生きてきて、理不尽に故郷を失って、奇妙な体質に変貌して、勝手に怪人扱いされた挙句に討伐されようとしている彼女を助けたい。
なにも悪くないのに。
誰も傷つけていないのに。
迫害され、闇に葬られようとしている彼女を。
救い出したい。

「しかし、どうしたらいいのかわからないんです。仮に協会と和解して、彼女が命を狙われることがなくなったとして──それから、どうしたらいいのか。心に傷を残したままにしたくない。痛みを消し去ってやるために、俺が……あいつになにをしてやれるのか、わからない」
「弱気な発言だね。らしくない」
「……………………」
「……少し、私の話をしてもいいかい?」

ベルティーユが顔を上げた。
ジェノスと真っ向から目を合わせる。

「私はかつて、とあるボランティア団体に所属していた。国境を越えて食糧支援、学校建設、医療活動などを提供する仕事をしていた。欧州の共産主義小国の貧しい地域で、私は現地の孤児院の子供たちに勉強を教えたり健康診断をしたりしながら暮らしていた。決して余裕のある生活ではなかったけれど、それでも充実した毎日を送っていたよ」
「……………………」
「しかしある日、その国で革命が起きた。民衆の反乱で政権が崩壊し、当時の独裁者は処刑された。当然ながら政府からの食糧の配給は止まり、劣悪だった環境は遂に瓦解した。私が担当していた孤児院も維持ができなくなって解体された。私は危険だからという理由で強制的に団体の本拠地へ戻された。その国へ戻ることができたのは、ほとぼりが冷めて、しばらく経ってからのことだった。まさに──地獄だった」

当時のことを鮮明に思い出したのか、ベルティーユが眉をしかめた。

「ストリート・チルドレンの溢れる市街地。飢えて力尽きた幼い子供たちがあちこちに倒れていた。転がっていた。けれど、私には──なにもできなかった」
「……悲しいな」
「ああ、悲しかった。身を裂かれるような悲しみに暮れながら、私はかつて世話をしていた孤児院の跡地へ向かった。建物自体は残っていたが、ぼろぼろに朽ち果てていて、見る影もなかった。しかしそこには、なんと子供が二人いた。見覚えのある顔だった。私をいつも先生、先生、と呼び慕ってくれた兄妹だった。施設を追い出されても身寄りがなく、行き場もなく、寄る辺もなくふらふらさまよって、戻ってきたのだろう。……戻ってくるしかなかったのだろう」
「その子供は、どうなったんですか?」
「もう長くないだろうということは一目でわかった。それくらい衰弱していた。私は必死にその子供の手を握って“なにかしてほしいことはないか。したいことはないか”と聞いた。聞くことしかできなかった。すると彼らは“先生の側にいたい。ずっと一緒にいたい。お母さんになってほしい”と言った。そしてそれから間もなく、兄妹は眠るように息を引き取った。私は彼と彼女の遺体をこっそり本国へ連れて帰った。持てる知識と技術と資産と時間を総動員して、その双子の兄妹をアンドロイドに改造した。そして生まれ変わった二人に新しく“ゴーシュ”と“ドロワット”という名前を与えた」

一息に喋って、ベルティーユは薄く笑った。

「これで正しかったのかどうか、私にはわからない。兄妹がこうなることを望んでいたのかどうか、私にはわからない。彼らはもう“死んで”しまっている。今のゴーシュとドロワットは後付けの人工知能で動いているだけの人形に過ぎない。外殻もほとんど人工皮膚に取り換えてしまっているから、もとの肉体など雀の涙ほどしか残っていない。しかし彼らは私の最愛の息子であり、最愛の娘である。これが──私の“正義”だ」

ただの自己満足でも。
ただの自己陶酔でも。
儚い祈りを叶えるために最善を尽くした。
と、ベルティーユは言った。

「私の同郷の偉人が、こういう格言を残している──“愛や憎しみが正義の様相をがらりと変える”と。そんなものさ」
「……そんなもの、か」
「正義なんていうのは曖昧模糊で多岐亡羊で、ひどく無責任なものだ。そう深く考えることはない。どうせ答えなど最初から最後まで存在しない問答なのだ。自分が正義だと思えば、それは正義なのだ。それのみが正義たりうるのだ。それ以上でも以下でもない」
「……………………」
「ヒズミのためにしてやりたいと思うことをしてやればいい。してやりたくないと思うことをしてやらなければいい。させたいと思うことをさせてやればいい。させたくないと思うことをさせてやらなければいい。それこそが正義であり、愛というものにほかならない。私の持論だがね」

してやりたいこと。
してやりたくないこと。
させたいこと。
させたくないこと。

守りたい。
傷つけたくない。
怯えないでいてほしい。
怖がらないでいてほしい。

胸を張って、笑って生きてほしい。

(……………………俺は)

ジェノスは自分の機械の掌を見つめて、目を細める。

いつの間にか、雨足はやや弱まっていた。
──朝には、晴れているだろうか。