Negative Edge Trigger | ナノ





バスルームからベルティーユが出てきた時には、既に午後十一時を回っていた。
熱いシャワーを浴びてリフレッシュした──というわけでは、当然ながら有り得ない。濡れたままの白衣を肢体になまめかしく張りつかせ、しどけなく垂れた金髪を撫でつける。どことなく扇情的な仕種だったが、そんなことに構っている場合ではなかった。

「……どうだ? 教授さんよ」

廊下で胡坐をかいて待機していたサイタマが、彼らしからぬ真剣な口調で尋ねた。

「心配するな。命に別状はない。……私自身も驚いている」
「あ?」
「既に傷が塞がり始めているんだよ。にわかには信じがたいが……この調子なら、二日とかからず完治してしまうだろう。絶対安静にしていれば、の話だがね」

眼鏡を外して、ベルティーユは眉間を指先で揉んだ。口振りこそ飄々としてはいるものの、さすがの“教授”も疲労を隠しきれていない。

「ジェノス氏の修復は?」
「ああ、もう終わってるみてーだぞ。さっきチラッと見たら五体満足になってた」
「そうか。いや、ジェノス氏が予備のパーツを自前で所有してくれていて助かったよ」
「でけー荷物持って押しかけられた方はたまったもんじゃなかったけどな」
「しかし、まさか同棲を開始していたとはね。サイタマ氏には男色の気でもあるのかな? ああ、私はそういった性癖に偏見のない人間だから、気にしなくていいよ」
「ちげーよ! 馬鹿か! 俺だってできるなら背が小さくて細すぎない肉付きで髪の黒い清楚系女子高生と住みてーよ!」
「……具体的すぎてドン引きを禁じ得ないのだが。この国の男性は皆そういった鬱屈した欲望を隠して生きているのかい?」

騒ぎ立てる二人の声を聞きつけたのか、ジェノスがリビングから出てきた。散々ワイヤーで切り刻まれたボディは、ドロワットとゴーシュの尽力によって完全に元通りになっている。

「……教授、ヒズミは」
「もう大丈夫だ。……見るかい?」

間髪入れずにジェノスは頷いた。サイタマは「俺は布団敷いてくるわ」とリビングへ入っていった。彼なりに空気を読んだのかもしれない。
ドアを潜ると、強い鉄の匂いが鼻腔を刺激した。床や壁に付着した血は洗い流したようだが、残り香までは消し去れなかったようだ。嘔吐感を喚起する、腐食した空気が充満している。
トイレと浴槽を遮断するカーテンをベルティーユが開けた。そこには生まれたままの姿にバスタオルを巻きつけただけのヒズミが、ぐったりと座っていた。まるで棺のようだ──とジェノスの脳裏に黒い影が過ぎる。
軽く頭を振って、その幻惑を振り払った。

ベルティーユは慎重な手つきでヒズミの体を支えつつ、背中がこちらを向くように整え、おもむろにバスタオルを剥がした。

痛々しい傷跡から、ジェノスは思わず目を逸らす。

「しっかり見なくていいのかい? 若い女性の裸なんて、そう拝めるものではないよ」

ベルティーユの軽口に反論する気さえ起きない。しかし揶揄されたのは腹立たしかったので、ジェノスは気力を振り絞ってヒズミの背中を直視した。白い肌に、一筋の赤。
そして──ほどなく、異変に気づく。

「……塞がっている……?」
「さっきサイタマ氏にも話したがね、驚くべきことに、既に血液の凝固が始まっているのさ。血小板およびフィブリンが驚異的な速度で機能し、二次止血栓の形成を完了している。現在は傷ついた骨と肉と臓器と皮膚の再生中といったところだろう。喪失した血液の生成……は、外から栄養を摂取しないと難しいのかな。詳しく検査ができないと、対策の立てようがないね」

ベルティーユが肩をすくめた。そしてヒズミに替えのTシャツを着せ、そしてハーフパンツも穿かせ、ジェノスを振り返る。

「彼女をリビングに運びたい。頼めるかい?」
「……わかった」

ヒズミはまるで羽のように軽かった。血が大量に抜けたせいだろうか。この矮躯が自分とベルティーユを抱えてビルからビルへ飛び回るアクロバットを演じたなどとは、当事者でなければとても信じられなかっただろう。割れ物を扱うように、腫れ物に触るように、ジェノスはヒズミを抱えてリビングに戻った。

「先生、彼女を布団に」
「おう。その隅のとこでいい……か……」

サイタマの台詞が途切れたのは、指し示した場所にドロワットとゴーシュがちょこんと座っていたからだった。かわいらしく三角座りしている二人は、ともども右目がなかった。ぽっかりと穴が空いている。それなのにいまいちスプラッタな印象でないのは、その奥に覗く“内側”に人間らしい要素がひとつたりとも存在していないからだろう。

「状況分析実行。……完了。座標変更の必要あり。移動を開始します」
「同じく。座標変更の必要あり。移動を開始します」

キャッシュディスペンサーの案内みたいな抑揚のない声だった。鏡で映したかのように揃った動きで、ドロワットとゴーシュは起立し、ぎこちなく歩いて反対側の壁際で止まった。

「……現在の最優先事項に基づき、移動を完了。待機モードに移行」
「同じく。待機モードに移行」

そしてまた同じ動作で、ふたりは三角座りに戻った。
瞬きもせず、虚空をじっと見つめている。

「……あの、ちょっと、怖いんだけど」
「仕方あるまい。修理しようにも、設備がなかったんだ。私だって彼らをこんな哀れな顔のままにしておくのは心が張り裂けそうなほどつらいんだよ。頭をやられたせいで自律思考回路も故障してしまっているし」
「そうは言ってもよ……。今日こいつらが来たとき、心臓止まるかと思ったんだからな俺」

ノックされた扉を開けたら、顔の四分の一が欠けた恐ろしい形相の少年と少女が立っていた。
なんて──今日び、ホラー映画でもやらないだろう。

「そういえばサイタマ氏には、ドロワットとゴーシュについて詳細な話をしていなかったね。それは悪かった、謝ろう。しかしまさか私の実子だと思っていたわけでもあるまい」
「いや、まあ、得体が知れねーとは感じてたけど。そいつらがそんな状態でいきなり来て、緊急事態だからついてきてくれとか言うからよ。何事かと思ったぜ」
「協会側に不穏な動きを感じてしばらく水面下で様子を窺っていたら、ジェノス氏とヒズミを襲撃する計画が上がっているという情報を掴んでね。テオドールとやら氏ご一行の後を尾けたはいいが私の力ではどうしようもなかったから、急遽サイタマ氏に救援を要請させてもらった。君が駆けつけて逃走の手助けをしてくれなければ、あのアパートの屋上で我々は肉塊にされていただろう。礼を言うよ」
「あ、いや、どうも。……それにしても、よく無事だったな、あんた。病院占拠事件のとき、ヒーロー協会の連中にも襲われたって聞いたけど」
「あんな有象無象、ドロワットとゴーシュの前では風の前の塵に同じさ。沙羅双樹の鐘の色、諸行無常の響きあり──だったかな? 言っただろう。私も昔はやんちゃだったのだよ」
「……“昔は”、ねえ……今も大概だろ」

サイタマが懐疑的な目を向ける。

「しかし、事態が事態とはいえ……ちっちゃい子供が人殺しってのは、気分のいいもんじゃねえなあ」
「なにを言っている?」
「あ? いや、だからヒーロー連中みんな返り討ちにしちまったんだろ?」
「確かに返り討ちにはしたが、殺したとは言っていない」
「えっ」
「ゴーシュには可能な限り手加減するようプログラムしておいたし、ドロワットの銃火器に装填しているのは非致死性のゴム弾だ。グレネード・ランチャーに詰めていたのは催眠ガス弾だったし、小動物などならともかく、大の大人を事切れさせるような火力じゃあない。実際、テロストたちも、フブキ組──ヒーロー協会から派遣されてきた連中も、ひとりたりとて死んでいない。一週間くらいは立てないかもしれないがね」

十万億土を踏みやがれ、とは言ったけれど。
踏ませた──とは、言っていない。

「こんなにも可憐でかわいらしい生き物の手を汚させるなんて、まっぴらごめんだからね」
「……さいですか」
「ともあれ、どうにかこうにか命は拾ったわけだ。今後のことを考えねばなるまい」
「どうしますか? 防戦一方になるのは避けたいですが」

ヒズミを布団に安置する作業を終えたジェノスが会話に入ってきた。口調は冷静だったが、その眼差しには怒りが滲み出ている。それは協会の非情を咎めるものなのか──はたまた、己の非力に対するものなのか。

「とりあえず、なんとかして協会の上層部にコンタクトを取ろう。平和な話し合いの場を設けることができれば最高だ。こんなふうにこそこそ逃げ隠れしていては、さらに相手の敵愾心を煽るだけだろう。こちらから出向いて、後ろ暗いところがないことを示す必要があるな」
「……歓迎してくれるとは思えませんが」
「その通りだ。これは楽観的な、希望的な観測に過ぎない。あんな闇討ちまがいのことをしてくる組織にまともに言葉が通じるとは考えにくいが、しかしこれ以外に手はない」

この負け戦に、いかにして勝利を収めるか。
泥仕合だが──白旗を振るわけにはいかなかった。

「人目の多い場所に呼び出してしまえば、あちらも露骨なことはできないだろう。戦略の詳細は──明日改めて相談するとしよう。あまり騒がしくしていては怪我人も落ち着かないだろうし、なにより今日は少々疲れてしまったよ。ゆっくり眠りたいものだね」
「その通りだな。明日のことは明日の俺に任せよう」

サイタマも同意した。
ジェノスだけが憮然とした表情のまま「外の空気を吸ってきます」と言ってベランダに出て行った。

「……まさか単独で協会に乗り込んだりしないだろうね、彼」
「んなこたしねーよ。確かにアイツ無鉄砲なところはあるけど、馬鹿ではねーからな」
「ほほう。サイタマ氏はジェノス氏のことをとてもよく理解しているようだ。やはりただならぬ関係なのでは」
「そんな趣味はねーって言ってんだろうが! 殴るぞ!」
「おかしいな、君は華奢なオンナノコに手を出すのは気が引けてしまう男だったはずだが」
「………………はあ、もう寝るわ」
「そうしたまえ。明日からは寝る暇もないだろうからね」

けろりと言ってのけ、ベルティーユは部屋の隅に陣取っているドロワットとゴーシュに歩み寄り、軽く頭を撫でた。すると二人は「「休止モードへ移行。六時間後に再起動します。おやすみなさい」」と見事なまでの二重奏を発し、背筋の伸びた三角座りのまま目を閉じた。

「……ちょっと怖いんだけど」
「気にするな。夜中にいきなり動いたりするかもしれないが」
「……………………」
「それでは、私も休むとしよう。おやすみ」

サイタマは返す言葉もなく、代わりに溜息をひとつ盛大に吐き出してから部屋の照明を落とした。

ノイズのような雨の音が少し耳障りだった。
──滔々と、夜が更けていく。