Negative Edge Trigger | ナノ
「まさかお前が出てくるとはな……」
テオドールが憎々しげに呻いて、唾を吐き捨てる。
「ご丁寧に死体のフェイクまで用意して姿をくらましておきながら、こんな修羅場に顔を出すなんてな。随分と日和っちまったみてーだな」
「別に撹乱しようなどと画策したわけじゃあない。いくらなんでもあんな粗末な肉人形で君たちをごまかせるだなんて思っちゃいないとも。ほんの軽いジョークさ。早とちりした警察が「死体を発見した」とマスコミに大慌てで発表してくれたのには、こちらが笑ったがね」
「……相変わらず、いい趣味してやがるぜ」
地下で発見されたという死体は、やはり偽物だったのか。
ジェノスは雨に打たれながら思案する。超鋼線によって切断された体の断面から水が染みて、体内回路が異常を来しかけていた。早くこの場を離脱しなければまずいことになる。
自分だけではない。
ヒズミも──背中からの出血がひどい。どうにか膝で立ってはいるが、ふらふらと右に左に揺れている。とてもじゃないが看過できる状態ではなかった。放置すれば間違いなく致命傷になるだろう。
「さて、あまり悠長に話している時間はなさそうだから、本題に入ろう。仲間を連れて至急ここから消えたまえ」
「……そんな脅しに、僕が屈するとでも?」
「思わないが、他に手はないのでね。君の得物に、こんな量産型のピストルごときで勝てる確率は低いだろうが──たとえ刺し違えてでも、私は自分の“患者”を守るよ」
ベルティーユが言い終わるより先に、動いていた。
彼女の口上に気を取られていたテオドールが、ヒズミの全力疾走に気づいたときには既に“チャージ”は完了していた。じじじじっ、という不穏な音を引き連れて、全身から火花を撒き散らしているヒズミが、こちらへ吶喊してくる──
「…………くっ!」
八つ裂きにしようとしたが、遅かった。
ヒズミが蓄電したエネルギーを、すべて放出した。テオドールに対して──ではなく、周囲の四方八方に向けて。
雨粒にスパークが乱反射して、爆竹のような音とともに一帯を眩い光が包んだ。
「う、お、おおお……っ!?」
目を開けていられず、テオドールは反射的に腕で顔を覆った。そのまま十数秒が経過し、フラッシュが止んだ時にはもうヒズミも、ジェノスも、ベルティーユも、そこにはいなかった。
逃がした──逃げられた。
「…………くそっ!」
隙を突かれてしまったことに毒づいて、テオドールは近くに落ちていたジェノスの左腕を思いきり蹴飛ばした。地面を跳ねて転がって、そして不可視の斬撃を浴びて細切れになった。
ビルの外壁を脚力だけで駆け上がり、屋上へ出る。貯水タンクの並ぶその閑散としたスペースを横切って、柵を踏み台がわりに跳躍。隣のビルに飛び移った。そしてまた、全力で走る。
「おい! ヒズミ、止まれ! ヒズミ!」
「……止まったら追いつかれるだろ」
「しかし……っ!」
「全員とっ捕まって殺されるとか、さすがに笑えねーよ……」
振り落とされた日傘の二の轍を愛用の眼鏡が踏まないよう切実にこめかみを押さえるベルティーユを左脇に抱え、紆余曲折を経て胸から上だけになったジェノスを右腕で抱きながら、ヒズミは降り頻る豪雨の中を疾走している。
ほとんど担がれているような状態のジェノスからは、ヒズミの背中の裂傷がよく見えた。勢いを緩めない出血、赤黒い肉と、骨の白。痛覚と決別してから久しい彼にも悪寒を覚えさせるほどの、鮮烈な惨状だった。
「滑って落としたら洒落にならねーから、おとなしくしてて」
「ヒズミ、お前、傷が……」
「うるせーよ。頼むから黙っててくれ!」
懇願するように、ヒズミが叫ぶ。
そこでジェノスはやっと彼女の手が震えているのに気がついた。自分を抱えている彼女の右腕が、小刻みに痙攣している。出血多量のせいか──と考えかけて、そうではないことをヒズミの表情からジェノスは悟る。
悲愴だった。
悲嘆だった。
余裕など一片たりともない。
不安に怯える迷子のような。
捕食者に慄く草食動物のような。
「…………ヒズミ」
「うるせーよ。うるせーんだよ。やめてよ……」
がちがちと歯の根が合わずに鳴っていた。
目は虚ろで、硝子玉のようだった。
「やめ……」
もう何度目ともわからない走り幅跳びの直後、がくん、と彼女は盛大に転んだ。
アパートの屋根にジェノスとベルティーユが放り出される。
「──がっ……! くそ……っ、ヒズミ! ヒズミ!」
「あ……うぁ……ごめんなさ……」
「限界だ。もういいヒズミ、もう動くな!」
ベルティーユも声を荒げた。しかしなおもヒズミは立ち上がり、ジェノスを再び持ち上げようと首に腕を回そうとして、果たして彼女にはそれだけの力さえ残ってはいなかった。
ずるり、と全身が弛緩して、受け身も取れずに倒れる。
「ヒズミ! もういい、もういいんだ!」
朦朧としながら、それでもヒズミは這いつくばってジェノスに手を伸ばす。首筋に触れたその指先は異常なほど冷たく、およそ生き物の肌とは思えなかった。
思いたくなかった。
ベルティーユが右足を引きずりながら、ヒズミとジェノスのもとへ歩いてきた。どうやら投げ出された拍子に捻挫したらしい。これではとても、逃げられない。
あの状況下──テオドールが単独で追ってくるとは考え難いが、応援を呼んで近辺を虱潰しにでもされようものなら一貫の終わりだ。チェックメイトだ。ゲームオーバーだ。
溢れ続けるヒズミの血液が、ジェノスの頭髪に赤く滲む。既に彼女のシャツは鮮紅色に染まっていて、元は白かったことなど忘れてしまっているかのようだった。
(くそ……くそぉお……ッ!)
目の前に怪我人がいて、生命の危機に瀕しているというのに、ただ抱き起こすだけのこともできない。
なんと無様なことか。なんと情けないことだろうか。
誰にも負けない強さを手に入れるために。
改造に改造を積み重ねてきて。
それが──これか。
無力で、非力で、実にくだらない。
今まで自分は一体なにをしてきたというのか。
彼女を救うんじゃなかったのか。
守るんじゃなかったのか!
「…………いで……」
ヒズミがなにか言ったようだった。微睡みのなかにいるような、胡乱げな顔で、紫色に変色しつつある唇が微妙に動いていた。
「…………ないで」
「………………ヒズミ?」
「なかないで」
なにを──言っているのかと。
思った。
この体には涙腺などないのだから。
泣くことなどできるわけがないのに。
泣きたくても。
──泣けやしないのに。
「あなたは弱くないから。わるくないから」
囁くように、ヒズミは言葉を零す。
「……わたしのせいで」
ともすれば、雨音に掻き消されてしまいそうな掠れ声で。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
それは、いつかも聞いた台詞だった。
なにかを怖がって。
なにかを恐れて。
許しを乞うように追い縋る彼女を見るのは二度目だった。
「ヒズミ、もういい、ヒズミ……」
それ以外──なにも言えない。
なにを言えばいいのかわからない。
なにも知らない。
彼女のことをなにも知らない──かけるべき言葉も見つからない。
ヒズミの喉が、ゆっくりと動くのをやめた。
穏やかに閉じられた両目。眠っているかのようだった。
本当にそうだったらいいのに──と、思った。