Negative Edge Trigger | ナノ





家に誰もいない。
なんとなく嫌な予感がした。ジェノスが出かけているだけならともかく、ヒズミまで不在というのはおかしい。彼女の不用意な外出など、あのジェノスが許可するわけがない。
……こう言葉にしてしまうと束縛心の強すぎるイタい彼氏のようで誤解を生みそうだが、実際問題そうなので訂正のしようもなかった。街を襲った脅威との死闘から帰宅したばかりのサイタマは、やれやれと首を鳴らし、玄関に立ったまま、さてどうしたものかと逡巡する。
そこで。

──こんこん、と。

控えめなノックの音が響いた。

「……誰だ?」

サイタマが尋ねても、返事はなかった。周りがうるさくて聞こえなかった、という可能性は、この閑寂な“廃墟地帯”では有り得ないだろう。再度、ドアがノックされる。
こんこん、こんこん、こんこん──
まるで呪いの藁人形に釘を打っているかのように。

「……………………」

三秒だけ考えて。
サイタマは、ドアノブに手をかけた。



立ち並ぶ建造物が、次々と平らに均されていく。
絶え間なく襲来するストリングの嵐。それらをヒズミは手で、足で、はたまた放電で払いのけながら、敵との距離を急速に詰めていく。

「──いやああああっ!」

まるで人間とは思えない動きで自分の眼前まで近づいてくるヒズミに、ニーナが恐慌の悲鳴を上げる。その彼女の脇腹に、ヒズミは遠慮もへったくれもない回し蹴りをぶちこんだ。ニーナが同年代の女性と比べて鍛えられた肉体を持っているのは素人のヒズミにもわかっていたが、それでも人外と化した──“怪人”と成り果てた生物の一撃の前にはあまりにも脆弱だった。まるで紙切れのように吹っ飛ばされて、かつてはビルディングであった瓦礫の山に激突し、埋もれてしまう。

「……ひどいなあ。死んじゃったらどうするんだい」
「そうならないように加減はしてるよ。一応な」
「はっ、化け物の分際で」

テオドールが侮蔑を込めて嘲笑う。

「それで」

ヒズミは無気力な面持ちのまま、彼を見据える。
青白く光る、異形の瞳で。

「まだ続ける? 正直、あんまり気が進まねーんだけど」
「怪人に仲間がやられたからといって逃げ帰るような正義の味方が許されると思うかい?」
「……ご立派なことで」

溜め息まじりにそう呟き、ヒズミは右腕に電流を纏わせる。白い蛇のようにスパークがうねって、そして一直線に──地面へ走った。
雨に濡れたアスファルトへと。
水面を伝い拡散された電撃がテオドールを襲う。しかし彼は跳躍することで、上空へ回避することで、難なく躱した。なるほど、それなりの戦闘訓練は積んでいるようだ──とヒズミが薄い唇を引き締めるのと同時に、テオドールがグローブを突き出した。超鋼線の乱撃を全身から放った電気でもって叩き落としている間に、テオドールは十メートルほど離れた位置に着地した。指を適当に曲げたり開いたり、ヒズミを睨めつける。

「はあ。手強くて嫌になっちゃうなあ」
「その台詞、そのまま返すよ」
「謙遜するなよ。まだこんなものじゃないだろ?」

さも愉快げに、テオドールは誘うように言う。

「早期発見できてよかった。“進化”がまだ中途半端なうちに討伐することができる。しばらく経てば、A級ヒーローの手にも負えない化け物になっていただろうね」
「かよわいピカチュウが努力値を積む前に潰しとこうってか。もったいねーことすんなあ」
「6Vピカチュウはさすがにかわいくないと思うがね」
「実戦じゃあ大して使えねーよ。パーティメンバー考え直した方がいい」

一体なんの話をしているんだ。
ジェノスは二人についていけず、なんとか動こうと歯を食いしばって身をよじるが、ほぼ胸から上のパーツしか残っていない現在の状態では、数センチ前に移ることさえままならない。

それでも必死に足掻いていたジェノスの左耳が突如、ぶつん、とちぎれ飛んだ。

「──…………ッッッ!?」

テオドールの仕業か、とジェノスは顔を上げたが、彼はヒズミとの会話に専念している。攻撃を放った気配はない。それならば──と、ジェノスが瓦礫の山へ視線を旋回させて、

先ほど吹っ飛ばされたニーナが、よろよろと立ち上がっているのを見た。
指先をこちらに向けて、なにやら細かく動かしている。
次いで──ひゅん、ひゅうん、と風を裂く音。
雨粒が不規則に弾ける。
死線が、こちらへと迫っていた。

しかしそれに気がついて、まずい、と戦慄したところで。
ジェノスには──もう、どうすることもできないのだけれど。

「ニーナ! 頭を狙え!」

テオドールが叫んだ。そこで初めて、ヒズミもニーナが復活していることを知った。同時に彼女の標的が自分ではなく、動きを封じられて攻撃を防ぐことも避けることもできないジェノスなのだということも、察した。
電撃で弾き返すのも、今からではチャージが間に合わない。
初動が遅すぎた。
完全に出遅れてしまった。
絶望的な状況下で、彼を守る盾になりうるのは──



せいぜい、自分の背中くらいだった。



そしてジェノスは──はっきりと、その目で見た。
眼前にヒズミが滑り込んできて。
それに自分が反応するよりも早く、彼女の背中から赤い花が咲くのを。
どこか茫洋とした表情の彼女の体から。
まるで翼のように。
鮮血が爆ぜて溢れて咲き誇るのを──見た。

「……ッああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

思わず吠えていた。絶叫していた。

どうして。どうしてこんな。どうして彼女が──どうして!

断末魔すらなく崩れ落ちるヒズミを、受け止めることもできない。ヒズミは地面に膝をついて、しかし倒れなかった。ばっくりと割れた背中からは泉のように血が滾々と噴き出しているが、それでも彼女は意識を保っていた。ほとんどジェノスに覆い被さるような体勢で、今にも力尽きそうな前傾姿勢で。
肩を上下させて苦しそうな呼吸をしていながら、それでも。
生きていた。

「今ので死なないのか。いよいよ“怪人”だな」
「…………………………」
「ヒズミ! ヒズミッ! くそ……よくも……っ!」

ジェノスを軽蔑すら含んだ視線で見下して、テオドールは鼻を鳴らす。勝利を確信した目だった。
悔恨と憎悪に顔を歪めるジェノスに、ヒズミは──微笑んだ。

「…………大丈夫、だから……」
「! ヒズミ、お前」
「だいぶ効いたけど、動けるから……大丈夫だか」

ごぽっ、とヒズミの口から血の泡が零れた。喀血した。
赤い飛沫が数滴、ジェノスの頬にも散った。
臓器にまで深刻なダメージを負っている可能性が高い。これでは本当に死んでしまう──
死。
死んでしまう。
また──守れないのか。
守り抜いてみせると宣誓したのに。

自分の弱さのせいで、また失ってしまうのか。
自分の脆さのせいで、また奪われてしまうのか。

「最後のお別れは済んだかい?」

テオドールが嘲るように言う。
一歩、二歩──こちらへと寄ってくる。

「まだ終わってねーよ」
「ああ? ……寝惚けてんのか?」

本当に心底から不思議がるように首を傾げるテオドールを、ヒズミは肩越しに振り返った。

「あと少しだけ、抵抗する」
「時間の無駄だと思うんだがなァ?」
「まあ、そう言わずにちょっと付き合ってくれよ」

面白いものを、見せてやるから。
そう嘯いて、ヒズミは右手の薬指に触れた。
そこには指環がはめられている。黒い石の装飾がついた、安っぽいデザインのシルバーリング。なんの変哲もない、ただのアクセサリーにしか見えないそれを、ヒズミはゆっくり外そうとして──

無粋に割り込んできた銃声が、彼女に待ったをかけた。

ジェノスの視界の隅で、ニーナの体が頽れた。晴れて彼女は通算二度目になるコンクリートの残骸との熱い逢瀬を遂げたわけだが、今度こそ起き上がることはなかった。
テオドールがぎょっとして音のした方──背後を振り向いた。

「その必要はないよ、ヒズミ」

そこに立っていたのは妙齢の女性だった。
差しているのは白いレース地の、明らかに日傘だった。雨天時に使用するためには作られていない上品なパラソルを右手に、そして左手には拳銃を──銃口から硝煙を吐き出しているジェリコ941を、堂々と構えていた。
汚れひとつ付着していない清潔な白衣に身を包んでいる。
長く伸びた金髪をアップにまとめ、知的な印象の銀縁眼鏡の奥の瞳は澄んだ海のように碧い。

「私の患者に、手荒な真似はしないでもらおうか」

凛とした声音で、謳うように彼女は言った。

ジェノスは自分が見ている光景が信じられなかった。驚愕のあまり口をぽかんと開けて、ことの成り行きを見守るしかない。呆然と、悄然と──その名前を口にする。

「……ベルティーユ……!」

そう呼ばれた彼女は。
いつも通りの、人を食ったような笑みを浮かべて。
誇らしげに名乗りを上げた。

「いかにも。私がベルティーユ・Q・ラプラス、その人である」